「すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた」ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア

結構前に読んだのにレビューしてなかった一品を。

「たったひとつの冴えたやりかた」といえば、あああれね、と思い出す人も多いんではないでしょうか。女性作家なのですが覆面作家で、かのスタージョンは「今の男の作家はダメだよ、今のやつでいいのはJ・ティプトリーJrだけだね、」とうっかり失言をしてしまったこともありました。

この作品集に入っている話は皆、メキシコのキンタナ・ローという場所が舞台になっています。しかし「メキシコの」というのは心理的には正しくなく、このユカタン半島のマヤ族が持っているアイデンティティは独立していて、「ユカタン的」ともいえるものである、と、オープニングの「マヤ族に関するノート」ではかかれます。

こんな文化人類学的オープニングで始まるこの小説は、主人公のアメリカ人がそのユカタン半島に暮らしつつ、現地の人々から聞いた話という形をとっています。
小説一編一編は間違いなく幻想小説。浜辺に流れ着いた、男とも女ともつかない謎の生き物、水上スキーの時に見えた幻、そしてデッドリーフの不気味な怪物…。
しかしそこには同時に、文化人類学的、もしくは国際社会学的観点も存在しているように思えます。冒頭でいったように、マヤ族という特殊な民族とその土地を選んだこと、またキンタナ・ローという場所が現代はリゾート地として栄えていることが、意味を持っています。

リゾート化は確かに富をもたらすこともあるでしょう。しかし市街地やホテル、クルーズ船によって垂れ流された汚水や化学薬品のおかげで海は汚れ、見る影もなくなっている。そのために汚れてゴミが浮き、珊瑚も育たなくなった海を舞台にした作品が「デッド・リーフの彼方」です。(この話、すげえ怖い。途中で主人公が一緒にきた仲間を見失って、海の真ん中で取り残されるところがあるんだけど、そこが本当に恐ろしいです)

そうして観光化された中で、マヤ族の生活、マヤ族の土地という意識はすっかり忘れ去られている。そのマヤ族という存在が、作品自体の持つはかなさをよりかきたて、マイノリティ無視への警鐘をかきたてます。

こういう社会学的な背景をとりこむことに納得いかない人もいるでしょう。実際、幻想小説として優れている作品群だけに、こうした背景をもっていることに意味があるのかは疑問です。
ですが読み終わった後に、今こうしている間にも消えようとしている文明や土地があるんだというショッキングな自覚をもつ瞬間というのが、確かにあり、それは非常に珍しい読書体験だと思います

こうしていうとなんだか説教臭い小説のようですが、全然そんなことはなく、幻想文学としてもかなり楽しんで読めることは確かです。ただ読み終わったあとに私はマヤ族、キンタナ・ローというものの直面している危機のほうが、より強く印象に残ったんですよ。世界幻想文学大賞を受賞した作品でもあり、ハヤカワのプラチナ・ファンタジーシリーズで、文庫で薄いので500円ちょいで読めるという手軽さもいいです。是非おすすめします。

シオドア・スタージョン『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』

というわけで、スタージョンの新訳キタキタ―!という割に姉に言われて初めて気付き購入しました。
本当にもう最近河出頑張りすぎなんですよ。幻想とSFで頑張りすぎ。いい出版社だ。
まあ兎も角、この奇想コレクションのスタージョンシリーズも3弾目となるわけです。
最初の『不思議のひと触れ』が2003年、『輝く断片』2005年。結構立て続けにでたところから、現在スタージョンはちょっとしたブームなんじゃないかと予想。

さてこのスタージョンシリーズ、前回までは編者は大森望さんでした。もうスタージョンヲタの中のスタージョンヲタともいえる人ですが、前回の二つは両方とも彼なりのテーマが感じられる選集でした。
輝く断片はSFファン以外にむしろ心に訴える、ちょっと悲しい結末を招くミステリ系。不思議のひと触れは幻想系の美しさと、スタージョンお得意のちょっと理想主義だけれども、思わず憧れてしまう奇跡のラストを持った作品集。

そして今回の編者は若島正さん。晶文社の『海を失った男』を訳した人です。今回もテーマが設けられていて、あとがきを見ると、あまりに特異なので「スタージョンだと読んで一発でわかってしまう」もの、という、スタージョンの中でも特に個性派をそろえたようなのです。

といっても、今回の個性派は今までのような『ヘン』な小説とは一線を画しているように見えます。『昨日は月曜日だった』『‘ない‘のだった!本当だ!』のような、考え方そのものが奇想、というよりも、視線の向け方、何気ないことへの思考の転換が個性につながっているような作品が多いような。(スタージョンは結構根元のプロットを見ると、かぶってる話も多いんですよね。アレンジするだけで)

とりあえず私が一回とおしで読んで一番気に入ったのは『必要』。
今まで誰かが必要としたから、これからも誰かが必要とするだろう、という信条に基づいているある種の店(「『すべて』ではなく『なんでも』が売っている」、と表現されています。つまり、大手のあらゆるものが揃うストアではなく、なんでもかんでもごちゃまぜに売っている、万屋のような店なんですね)の店主、Gノートと、口が悪く人を不愉快にさせずに置けないゴーウィング。
物語は彼らにスミスという男が追いはぎにあう所から始まります。スミスはほうほうのていで家に帰りついた挙句、電話が通じなかったという理由で奥さんのエロイーズに浮気の疑いをかけ、非常に冷たい扱いをしますが…。

Gノート(スタージョンによくある心は優しいけどブサイク)が凄いいい人なんですよねえ。ものづくりの達人でもあって、その表面ががさがさになっているだろう手を思うと心がほっこり暖かくなってしまいます。
ゴーウィングも、最初はその性格の悪さが非常に不愉快なんですが、読んでいるとその心に秘めた苦悩が明らかになっていきます。個人的には私がスタージョンと聞いてイメージするのは、この手の作品。 (ちなみにこれ、帯の文章が猛ネタバレです。読まないように注意。)

他にも普通小説風のものもあって、『帰り道』『午砲』がそう。特に『午砲』はスタージョンの少年時代をもとにしたものらしく、やっぱこの人自身もこういうちょっと繊細で、アメ公らしくない思考の持ち主だったんだなあと思いました。内容自体もタイトルの理由も含めて、人物の会話の間に人間性がにじみ出ていていい。今まで紹介されてきた作品の中では珍しいタイプです。

で、やっぱりこれのメインは表題作。タイトルも長いですが内容も長く、長めの中編ぐらいあります。内容としては同じ下宿にくらすそれぞれ個性的な人物が、宇宙人のある実験に使われ、それによって変わって行くという、スタージョンにしては結構ベタな展開となっています。(この『実験』自体がかなりかわってるんですがそれは読んでいただくとして)
自分の家柄ばかり気にしているオバニオンと、何故かその偏屈と仲良しな子供、ロビンとその母親、ハリウッド女優という狭き門をくぐることが夢だが何一つ前進せず、常にイライラしているホーント、そのホーントとぶつかり合っていつもびくびくしている臆病な女性、ミス・シュミット。

そして特筆すべきは、何もかもを理詰めに考える能力をもった職安職員、ハルヴォーセンかと思われます。彼は最近常に『死にたい』という欲求に駆られ、『何で死にたいんだろう』と疑問を覚えます。彼は自分が不適格だと思っており、その理由は彼が、猥褻な広告や性的な映画、そうしたものにまったく興味をもてないからで、そのために生きていてはいけない人間だと思い込んでいるのです。

スタージョンの小説には不適合者というのはよく出てきますが(そしてそれは大抵孤独で、それが奇跡にであったり、もしくは改心できないまま不幸な結果をたどることもある)、アセクシャルの人間はあまりいないのでは、と巻末で若島さんも解説しています。
この小説の人物達は、そもそも自分の欠点の原因に殆ど気付いていない。そうしたことさえ考えたことが無いんです。しかし宇宙人の介入により、彼らはそれを『自分で』見つけ出す。自分自身というものに対して初めて「悩む」。そしてそのもやもやを抱いた時、ある出来事が起こると、まったく今までとは違った行動をとるようになるんです。

ハッピーエンドの優しい話に、スタージョンらしい奇想が加わって(『偶然と思われたことが偶然ではない』という発想の転換)なんとも読後感のいい小説になっています。ちょっと長すぎで途中ダレるし、最後、たいしたヒントもなく、答えを導き出してしまうオバニオンには笑ったけど(何者だコイツ。コイツこそ宇宙人じゃないのか)やっぱり力作。

他にも『火星人と脳なし』はタイトルまんまの話で、ユーモアたっぷり。笑えます。『解除反応』は記憶喪失をテーマにした作品で、主人公のここがどこかわからない躊躇いがこっちにも伝わってきます。(どうでもいいけどこの記憶喪失になってしまったトリックが何べんよんでも理解できません…なんだあの説明…)

全体としては今までの2作よりちょっとパンチに欠ける気がしましたが、相変わらずの変化球と泣ける人物描写で最後まで目が釘付けでした。ありがとうスタージョン。ありがとう若島さん。

あと最後に。スタージョンブルドーザー好き過ぎだろ。

怪奇探偵小説名作選 9 氷川瓏集

読んだのに書評を書いてなかった。時間がやっとできたので書きます。
で、またちくまです。怪奇探偵小説シリーズは、まとめて読むのにはちょっと金がかかったり、手に入らない作家のものもあったりして、編者の日下さんはほんと、神様仏様光明優婆塞様でございます。ありがとう。

んで、その中でもダントツで無名だと思われるのがこの人、氷川瓏。私もこれで見るまで名前すら聞いたことがありませんでした。
とりあえず、書店でみかけたら冒頭の『乳母車』だけでも読んで見てください。たった3ページ。たった3ページなのに、ぞおっと背中を撫でるような読後感はなかなか味わえないです。
でもこの作品はざっと作品集みてると異例のもののようで、他は乱歩の中長編っぽい、ちょっとエロティックなミステリ風味の作品と、幽霊ものとがメインです。

表題作の『睡蓮夫人』は、普通の幽霊ものとおもいきやラストでひねりがあって、幻想と現実の境目がぼやけたところが、なんとなくふっと寒くなる読後感を持っています。江戸川乱歩的危険度(なんだこの造語)でいえば、『風原博士の奇怪な実験』がなんとも危険。性転換の実験を受けた恋人(元女)に、抱かれたい!と強く妄想し女性に性転換する男の主人公の思考回路がなんともまあ…思うか?普通。そんなことを。(ちなみにこれは2段オチになっていて読み終わった後ちょっとがっかりすること間違いなしでございます)

個人的に面白いな、と思って好きだったのは『白い蝶』。白い蝶に対して異様な恐怖を抱くことになった青年の話で、短編ながら(だからこそなのか)全編とおして緊張感と若干の狂気が感じられ、余韻を残すラストも、途中で読めるものでありながら印象的です。個人的にはこの人も乱歩と同じで、中編や長編より短編が好きだな。長くなるとなんだか中だるみして読み飛ばしてしまう。でも短編は緊張感があって、そうした文章的欠点も見えないし、中々いいです。

その長めのもののなかでも一番気に入ったのは『洞窟』。中途半端な関係を続けながら、結局恋人になれなかった昔の思い人に、偶然出会う記者の主人公。彼は結局声もかけることができず、深く二人の思い出を残す洞窟へと戻っていきますが…。

冒頭が殺人シーンで始まる、ちょっとドラマっぽい話展開と、この人の話には珍しく主人公のはっきりしない心情が描かれていて比較的目が滑らずに読めます。全体的に重たい雰囲気もあってエロティックでいいです。質でいえばこれがベストかな。

オリジナリティのようなものはあまり感じない作家さんなのですが(どこかで読んだな、って話も多い)、幻想小説とミステリの交わるところに位置するような、そんな作家さんだと思いました。ようするに乱歩。
幽霊ものは型にはまったものながら、少し時代遅れな奥ゆかしい女性の謎に満ちた雰囲気が色っぽく、基本的に未練がましかったり陰気だったりする主人公の目には、いかにも暗い色合いがにじんでそうで、なかなか魅力的です。新しいところはないけども、ある意味怪奇小説名作選を代表する作家なのかも。

批判的にいいますと、あんまり文章が巧くないなあ、ってのと、どうも色恋ざたがメインで読んでて話展開が同じなので、途中で飽きて休んでしまい、いっきに読ませる力ってのを持ってる作家さんではないなあって所ですか。あと幽霊ものは雰囲気はいいけど、怖くない。冒頭の乳母車が一番怖くて、あとは橘外男の方が幽霊ものはうまいかなあと。

個人的には日下さんのあとがきを先に読んでとても期待してたせいもあって、ちょっと期待はずれだったかな。
比べるわけじゃないのですけども、これ図書館で借りて読んだのですが読んだ後近くにあった三島由紀夫の怪奇小説集を読んだら、話のもっていき方とか、キャラクターがいきいき動く様子とかが本当に凄くて、やっぱり日本人としては日本の作家にどうしても文章力を求めちゃうよなあ、と思いました。海外文学好きで翻訳ものばかり読んでいると、あまり気にはならないのですが。とにかく目が滑らない。退屈させない。目の前に風景がはっきり現れる。
結構面白かったのでこれも購入予定です。読んだらこちらもレビューします。

「神州纐纈城」国枝史郎


今回は「信州纐纈城」。纐纈はこうけつ、と読みます。纐纈城というのは宇治拾遺物語にでてくる話で、中国の故事であり、城の中で人に口の利けなくなる薬を飲ませて生き血を搾り取り、それで布を染めるという恐ろしい物語。

物語は中心人物と思われる庄三郎という武田の家臣が、あやしげな人物から赤い布を買うところから話が始まります。それは人血でそめられた布としり、庄三郎はそれを手がかりに失踪した伯父と父を探しに富士山麓へ向かう。


中心人物と思われる、とかきましたがこの男、後半になるとさっぱり出てこなくなる上、出てきたと思うと富士にある教団にまぎれこんで割と平和そうにゴロゴロしてるので結構ズゴーって感じなのですが…まあとにかく、この話スタイルがちょっと変わってまして、主人公と思われる人がいない。
沢山の登場人物が出てきて、それが場面場面かわるごとにきりかわっていく。この人物が魅力的なんだなあコレが。
顔を作る造形師月子や、教団の創設者である光明優婆塞、武田家を抜け出した庄三郎を追う鳥刺しの少年甚太郎。でもなんといってもやっぱ一番魅力的なのは陶器師じゃないでしょうか。

陶器師といっても焼き物をつくるわけでなく、旅人を竈にいれて蒸す野郎なのですが、こいつが鬼畜も鬼畜。なんでもかんでも『姦夫!』といっては切り捨て、人を殺すのになんの罪悪感も抱かない男なのです。
人形のように無表情な恐ろしいほどの美男子で、剣の腕も立つ。血を求め、人を殺さずにいられないのですが、その狂気の間にはむなしさが見え隠れします。実は彼には過去もあるのですがそれは読んでもらうとして。
でも、とにかく魅力的なキャラだよなあ。けだるそうに剣を佩いて現れ、真っ白な顔をして月夜のなかにゆらりたちながら、斬るかな、それとも突くとしようか、と呟くなんて、たまりませんよ。他にも美人&美男子率がかなり高く、個人的には所謂萌えを感じました。

冗談は兎も角。この話、人類に大きな恨みを抱く纐纈城の城主(瀬病を病んだ、能面の仮面をつけた男)対富士の宗教団体(光明優婆塞という、まるで乞食のような、懺悔と己への罰を精神とする男)という図式になっております。

富士教団はまるでユートピアのようなところ。しかし時折人狩りと称して纐纈城の人達が人狩りと称して人を攫っていきます。でその纐纈がどんなところかというと、これもまた一種のユートピアなんですよね。彼らは確かに囚われているけれども、いい服もきれるしいい飯も食える。ただ時折くじで誰の血が絞られるか決められてしまうのだけれども、多くの人はそれをよしとして動かずにいます。

富士教団も少し似ていて、庄三郎は当初の目的を忘れてついだらだらとその楽園で過ごしてしまう。何か人をひきつける魔力みたいなものがあるんですね、その教団には。

個人的には富士も纐纈もどちらが善でどちらが悪といいきれない部分があるように思えてなりません。私自身がユートピアというものに一種の胡散臭さを感じるせいか、あの富士教団には善人の集まりというより不気味さを感じますし、陶器師が光明優婆塞が、人が救われるのは懺悔しかない、とといたときにあざ笑うのにも納得できました。実際、本編で甚太郎の言葉から月子が、善と悪とははっきりわけられないものなんじゃないのか、と自問自答するシーンがあるとおり、全編に渡って、残酷だけれど悲しい部分を持った人々が沢山出てきます。

富士の描写も素晴らしい。まだ未開で、危険な場所だった富士。そこに広がる発光虫の群がる洞窟、仏の掘られた岩壁。 グロテスクな描写も多く、あまり意味のない解剖シーンもあったり、終盤で瀬病患者が続々と集まってくる部分や、月子の造顔の様子までが非常な密度で描かれていて、なんとも血の匂いが濃い作品だと思います。てか読みながら最近読んだ奴で一番グロいと思いました。

ただ、これ、未完なんですよね、しかも凄いいいところで終わる。これが未完であるという理由もわかる気がします。キャラクターがどんどんでてきて、話が色んな方向から進んでいくのは面白いんですが、逆にいうと話が凄くとっ散らかってるんですよね。キャラクターの性格もしょっちゅう変わっちゃってる印象も受けるし。(甚太郎とか、あいつはもっと残酷なヤツと思ってたからガッカリしたよ全く)

『こういうストーリーをかきたいからこういう場面を書く』というより、『こういう場面をかきたいからストーリーをこういうふうにする』という練り方をしているように思います。だから風呂敷広げすぎてたためなくなったのかなあ。でも確かに風呂敷広げすぎたよさってものもあって、そのとっちらかった印象すらも混沌とした雰囲気を与えていて、味わいはあるんだけど。
でもこういう話の途切れ方なら、本当に完成させて欲しかったなあ。伏線張りすぎて、ごちゃごちゃしててちょっとよみにくい。あんなにいいキャラクター描写や、風景描写があるのに本当におしいと思って歯噛みしてしまいますよ。


でも、ほんと、なんとも幻想的かつ血なまぐさい描写が素晴らしく、くるくる変わる展開に目がはなせなくなってしまいます。陶器師みたいな男何処かにいませんかね。斬り殺されたい。
闇がある、狂気とか血とか瀬病とか宗教団体とか、このへんのキーワードにびっとひらめくものがあったら、是非開いて欲しいです。いや、ゴスを気取る人も絶対読むべきですってこれ。


かきながら思ったんだけど、この大風呂敷広げたってデビルマンだよな。あれはオチのつけかたが凄かったせいで返って評価が上がったけど。
恐山にいったら国枝史郎に続きかいてもらいますよ、ほんと・・・

夢野久作についてちょっと

今回は久々に作家について話してみようと思います。てかカテゴリ作ったのにスタさんしかないじゃないかこのカテゴリ。

夢野久作といえば、何となく最近が旬の人、という気がします。というのは何故だかわかりませんが数年前から彼の名前が一般にも知られるようになってきて、今まで怪奇文学といえば江戸川乱歩か横溝正史かって感じだったのがこの人の名前も付け加えられるようになったような気がするからです。なんでだろ?なにかあったのかな?

彼といえばドグラ・マグラですが、私としては短編を読むことを切に勧めます。『斜坑』や『卵』なんかがお勧めです。何故ドグラマグラを勧めないかというと長いんですよ、これ。兎に角長い。通しで読めばそのよさもわかるのですが、最初に読むにしては長すぎるし、その大半が小説の中に出てくる文書、というわけであまり勧められません。面白いんですけどね。チャカポコチャカポコ。
個人的に長編はどうもぐだぐだになりやすい人の印象があり(多分独特のアクの強い文体に途中で飽きがきちゃうんだと思う)短編が好きです。

彼を一言で言えば狂気の作家、だと思います。ものすごく私見だし、御子孫もお怒りになられるのかもしれませんが、彼は小説を書かなかったら殺人鬼になっていたんじゃないのか、とも思うのです。
何故そう思うのかというと、彼の書く文章そのものがかなり『病んだ』印象を与えるからです。
所謂『病んだ』小説を書く人は沢山います。さっきあげた乱歩もそれだと思います(正史はよんだことないの)。でもちがうんだよなあ。乱歩の病んでる加減は狙って描いてるって感じがするんですよ、その奇抜さや、グロテスクさで人を驚かせてやろうというような。久作は何か違う。乱歩が剃刀でしゅっと切った傷口ならば、久作の文章は何かで潰して膿んじゃったというような、何かぐちゃぐちゃした暗さ、みたいなものが確かに漂っている。

まずはその独特の文体。カタカナを多用した文体はなにかしら人をぞっとさせるようなところがあり、また笑い声(アハアハアハ)や擬音(ダルダルと飲み込んでしまった)の表現がもうほんと独特で、もうこれはQさんじゃなきゃかけないです。
これって笑えるんですよね。笑えるんだけど、薄くあげた唇のはじで笑いがこびりついてしまう。何だかぞっとするんですよ。おかしいのに。

そしてこれは本当に色んな小説を読むたびに感じることなのですが、久作の場合特に顕著に、この人にしかかけない雰囲気、言葉で言い表すことの出来ない何かが作品に漂っています。
例えば私が大好きな彼の作品、『斜坑』は炭鉱が舞台なのですが、オープニングから「ホォーーー…トケェ―――…サマァァ―ー」と始まります。コレは坑内で死んだ人が魂を残さないように、死人に場所をいいきかせながら死体を運んでいく、という場面です。
これに代表されるように、全編不吉な匂い、またなんといいますか、田舎らしい野蛮な人の性質(これは差別的かもしれませんが、実際田舎を舞台にしたホラーとかって多いよね…)がまさしく行間の間に読み取れるんですよ。この雰囲気作りが本当に凄くて、彼の作品を2,3篇も読むと、もう暫くあの空気から逃れられないほどです。なんだろう、この才能というか、この自身が持っている病んだものに嫉妬さえしてしまうのですが、どうしたら本当にこういう空気まで書けるんだろうなあ。兎に角素晴らしい。

あと後味の悪さも特徴の一つで、毎回毎回救われなかったりぼやぼやして終わってしまい、頭の中にいつまでもその場面だけが煙のように渦巻いていたりする。
少し調べてみたら実際少し複雑な環境の人だったようで、やっぱり少し変わった感性の人だったんだろうな。まあこれは控えめな言い方だけど要するにキ印なんですよ彼の小説(ああいっちゃった)。
もし読んだことないって人がいたら是非お勧めしたいです。軽くショックぐらいはうけると思います。ただこれを受け入れるかどうかは別問題ですが(笑)。

お勧めは『斜坑』『いなか、の、じけん』『空を飛ぶパラソル』あたり。とくにいなかの~はまさしくQさんの代表作。私はハードカバーでもってますが文庫でも全集でてるみたいです。
あ、あとこの人とか他の日本怪奇小説に代表されることですが、今から見ると差別とも受け取れる言葉は多いです。キチガイとかシナですね。まあそれがまた雰囲気あっていいんだけど、その辺駄目な人もいるかもしれないんで一応。

どうでもいいのですがこの人とラブクラフトだけは写真見たときショックを受けました。夢野アゴ作…アゴクラフト…とか呟いてませんよ!断じて!
そういや2ちゃんのアゴ…ラブクラフトスレは大好きなんですが、あんな感じでQちゃんスレもできないでしょうか。Q語で語りたいです。

スティーヴン・J・グールド『ワンダフル・ライフ』

さて、今回は私には珍しく科学書でございます。今更コレかよ、ってぐらい、一般人によく知られてる科学書だとも思うんですが。すいません。

グールドという人は、一般向けの科学書やエッセイを沢山書いていて、それが読みやすく理解しやすいだけではなく、人文と重ねあわせ、人間の歴史まで述べてしまうところが非常に面白い人だと思います。エッセイを読んでいると、間から知的さがじんわりにじみ出てきていて、いやあもう、私大好きでございます。

アメリカでベストセラーになった本です。アメリカ人のいいところって、ちょっと一般向けに向けられたりした本とかだと古生物学だろうが物理だろうが、なんでも「読んでみよう」て思う、あのパイオニアスピリットですよね。日本人だとどんなに読みやすくても敷居が高いと思う人が多そう。面白いのになあ、この手の。

この本の主題は『バージェス頁岩』。バージェスからみつかったカンブリア紀の化石郡です。ナラオイア、オパビニア、アノマロカリス、ハルキゲニア。とりあえず知らない人はこの当たり、検索掛けてみてください。こんな生き物が存在したのか、と驚きと共に好奇心を刺激されるはず。

まずバージェス頁岩とはなにか、ということから始まり、ウォルコットという人が適当に分けた分類を見直す計画にのりだしたハリー・ウィッテントンらの発見がメインにすえられています。
この発見から、カンブリアというのは特殊な時代であること、またそれだけではなく、人の(少なくとも一般人の)進化に関する偏見も打ち壊すものであることが明らかになります。

何故カンブリアが特殊な時代なのか。
大体の人は進化の樹を思い浮かべるときに、ある偏見に基づいて思い出すはずです。つまり、下が狭くて上が広くなっている、あの形。少ない数から始まり、その『原始的な』生物から、『多彩な』今の生物が生まれてきた、という考え方です。

カンブリア紀はこれに疑問を投げかけます。何故ならバージェス頁岩から見つかった化石の種類は現代の生き物より多彩であるからです。

何が多彩かって、驚いたことに今までわけられたどんな門にも入らない生き物が存在するのです。これは大変なことです。だってカンブリア紀の生き物が出てくるまでは、新しい門を作る必要がないくらい、生き物は理路整然とわけることができたんですから。

またこの偏見から、グールドはさらに面白い見地でものを見ています。それは『原始的』という考え方、それに伴った『弱いもの』という考え方です。
カンブリア紀の特殊である原因の一つは、それがばっと爆発したように多彩な生き物を生んだあと、滅びるときもあっというまに滅びてしまい、繁栄する期間が明らかに少なかったことです。
この説明としていわれているのが、『自然淘汰』、ダーウィンのアレです。自然淘汰というのは自然が生き物を操作する、というものです。つまり、キリンの首が長くなったのはたまたま首が長くなる遺伝子を持ったキリンがその有利さ(遠くの敵を見れるとか、葉を多く食べれるとか)によって生き残り、種として確定した。
(ちなみに、じゃあ何故進化がどんどん進んでチーターがマッハ3で走らないのかというと、チーターにはほかにも進化させるべきところがあって、例えば子供に与える乳の栄養価だとか、牙のサイズや鋭利さだとか、そういった面も共に進化させているので、そうした極端な進化ばかりが起こらないんだそうです。この極端な進化が起こった例が、クジャクなのではないかと聞いた事があるような無い様な・・・)

これが自然淘汰の考え方なのですが、これでバージェス頁岩を考えると、つまりなんらかの原因によって大量発生した生き物達は、『原始的』かつ『適応力が無かったため』後世まで殆ど生き残れなかったのだ、ということになります。しかしグールドによると、この極端な自然淘汰には人間中心的な考え方があるのではないか。つまり、人間はそうした自然淘汰の結果生き残り、進化の先端にいることができる『特別な』生き物である、という考え方ですね。

グールドのエッセイを読んでいるとしばしば一見冷静である科学者が、人間を『動物』として正当に見ることが出来ず過ちを(少なくとも今から見れば)犯している、という話が出てきます。そのたびにグールドはそれは正しくないと解き、謙虚かつ科学的なものの見方をすることを勧めているように思えます。

バージェス頁岩でも同じで、実際観察してみると、彼らが滅びた必然なんて何一つない。例えばカンブリア紀から残った数少ない種類であるアユシェアイア(現在のカギムシ類)は、当時は決して優れたところが特別にあったわけではない。
この極端な自然淘汰の考え方の欠点は、どうしてもあと出しになるからだというんですね。例えばサーベルタイガーは牙が長すぎて滅びた、といわれていますけど、もしヤツらが長く生き残っていたとすれば、私達は「あああの立派な牙のおかげでここまで繁栄したんだ」と判断するでしょう。
ダーウィン本人もいっているらしいのですが、自然淘汰はあくまで考え方であって、確固たる確信しとして使うものじゃないようなのです。グールドはこれを踏まえ、2,3の仮説を組み合わせた、バージェス頁岩の絶滅について説明しています。

考えてみればダーウィンの進化論が受け入れられるまで、神様が世界を作ったのだと思ってる人が一杯いたわけですよね。今になってみれば笑えてしまいもしますが、でも今でさえ私達は自分が特別でありたい、『少し違う生き物』でありたいと常に思ってるんじゃないでしょうか?

グールドのエッセイにのっていた話だと思いますが、ダーウィンがで、『色んな人々が世界はこんなに秩序だっていて美しいのだから、誰かによって想像されたにちがいないと思っていますが、私は全くそうは思いません。神様が寄生バチのような残酷な生き物を作るとは思えないからです』と、いかにもダーウィンらしい率直さでいっていたのを読みました。
確かに世界は秩序だっているように見えるかもしれないけど、それは結果としてそうなっただけで、実際細かいところに目を向けると混沌としてるものなんだよなあ。

長々かきましたが、一般の人でも読みやすいように細かい用語解説がつき、なんといっても豊かな図版で示されているのでパラパラめくってるだけでも結構楽しいです。
グールドの代表作。これに嵌ったらドーキンスの『盲目の時計職人』もお勧めです。

あ、ちなみにちょっと前の本なので、少し発見が進んだ部分もあります。ハルキゲニアがそれで、実際は上下逆であったことがあきらかになりました。どっちにしても奇妙キテレツにはちがいないですけど…

『火を喰う者たち』デヴィッド・アーモンド

アーモンドは不思議な作家で、そんなにアメリカでミリオンとばしてるわけでもないのに作品を出すたびに邦訳がでます。宮崎はやお氏が『肩甲骨は翼のなごり』を推薦したのもあったのかもしれませんが、多分日本で人気があるんでしょうね。最近も、クレイ、だったかな、そんなタイトルのが新しくでてました。喉から手がでるほど欲しかったけど久生十蘭をかってしまったよ私は。

ジャンル的にはヤングアダルトノベルってやつで、10代の人が読むものらしいです。だから児童文学の賞とかももらってる。でもファンタジーといってもハリポタのような剣と魔法の世界ではなく、どちらかというと普段の生活にふっと入り込んでくる異質なものの物語が多いかな。


でこの火を喰う者たち。

主人公ボビーの住んでいる場所は寂れた海岸沿いの炭鉱の町。彼はある日芸人のマクナルティーの技を目にします。鋭い串を片頬から片頬へと突き通す技、鎖ぬけの技、そして火を吐き出しては吸い込む火喰いの技。マクナルティーはボビーの父のかつての戦友でしたが、戦争のせいですっかり頭がおかしくなってしまっている。しかしマクナルティーはボビーには優しい態度をみせます。

ボビーは様々な悩みを抱えています。父が時々なかなか止まらないせきをすること、キューバのミサイル、中学校の酷い教師。そうして悩みをかかえて苦しむとき、彼はマクナルティーを思い出します。彼の技を思い出し、自分自身に針を突き立てて、「もし父を召すなら僕を」と祈ります。

祈りということが、大事な位置をしめています。
田舎町の片隅で、少年が出来ることといったら祈ることだけ。そんな時に現れたマルナルティーは力強く、悲しくてミステリアスで、まるで世界中の罪を飲み込んでしまうかのように、火を吐き出し、吸い込む。この旅芸人が現れたことでボビーの心の中も、また外で起こる出来事もどんどん変化していきます。
祈るってことはガキのころに私もしょっちゅうやったことで、なんら宗教意識もなかったにも関わらず、自分自身が身代わりになって家族や友人、世界を救えるのだと思ってました。実際にそれで世界が救われたことなど絶対なかったのだと思いますが、この小説の中での祈りは、確かに何か巨大な力を持っているように思われます。とくにマクナルティーの、おそらく彼自身意識してもいない偉大な祈りは。

読んで思ったのは、ソーニャ・ハートネットの小鳥達が見たものと、通じるものがあったということです。ただこちらがハッピーエンドに終わったのは、おそらくボビーの周りの友人や家族の大きさ、ボビー本人の明るい性格と、そしてマクナルティーがいてくれたからなんだな、とぼんやり思いました。
ただ私としてはこちらよりもハートネットのもののほうが暗くて美しい雰囲気も好きだし、まあ、年もとったのかもしれませんが奇跡と称する偶然ももう今更信じることも出来ないし、なんといってもボビーのような性格は私にはもてないこともあり、小鳥たちが見たものの方がスキですかね。

でもアーモンドの中じゃファンタジー要素が少なめで入りやすいし、なんといっても切なく爽やかな読後感がすがすがしくて、文章も読みやすい。なんだかだいって最後は涙ぼろぼろだったし私…。
これから何か軽いもの読みたいかなあなんて人も是非読んでみてはいかがでしょうか。それでサーカスとかいきたくなるといいと思いますよ私みたく。

怪奇探偵小説名作選―5 橘外男『逗子物語』

本レビューとか名乗っといて最近まったくかいてないことに気付きました。かきます。

といっても今回は橘外男。幻想怪奇好きなら絶対知ってるんじゃないかと思われるほど有名な方っぽいのですが私最近まで知りませなんだ。このシリーズはなかなかの品揃えでとりあえず小栗虫太郎買って岡本綺堂とこの人で迷ってたら最近猟奇にハマってることだし、と思ってこちらを購入。

2部構成になってます。最初は西洋が舞台で、後半は日本が舞台のもの。後半は割りと真っ当な日本怪談。特筆すべきはやっぱり前者かなあと思います。
ドキュメンタリータッチの文体でありながら、書かれているものは狼男や人食いゴリラ等荒唐無稽なものばかり。それに妙に詳しいグロ描写やおなじみの金髪美女が合わさり、まあなんとも胡散臭い。この胡散臭さ、どこかで見たなあと思ったら、往年のホラー映画そっくりじゃないですか。今見ると差別的な描写も凄くいい味だしてて、ああたまらないなあという感じ。

このたまらなさを表現するのは、ちょっと難しい感じです。でも江戸川乱歩や横溝正史が好きな人なら、あの胡散臭さとちょっとしたアホらしさがどれぐらい魅力的かっていうのがわかってもらえると思います。橘外男の場合はそれにくわえて、そこまであからさまな内容でありながら品のある文体のおかげで、読み物としても面白いものになってます。


個人的には女豹博士が一番好きかな。色っぽい女医さんもいいし、真意のほどがぼかされた感じのエンディングも、途中の意味のないグロ描写もいい感じ。
あまり怖い作品という印象はないんだけど、後半におさまっている「蒲団」はかなり震えがきました。よくある呪われた物質なんだけど、それが蒲団というのはなかなか斬新だと思ったし正体も不気味だしで夜読むもんじゃねえなと思いました。


基本的に西洋ホラーと同じでスプラッタとトンデモ展開を楽しめる、とっつきにくくてもエンタメの強い作品だと思いました。

「小鳥たちが見たもの」ソーニャ・ハートネット

読んだ後、こんなに胸にきて夜寝れなくなる小説って久しぶりです。
主人公・エイドリアンは、精神を病んだ母を持ち、厳格な祖母に育てられています。彼の心にはいつも「誰にも理解されない」「自分は本当に間抜けで、個性もなくて、友達もロクにできないような奴なんだ」という卑屈な不安が漂っています。

そんな彼はニュースで、兄弟が誘拐された事件を目にします。両親が涙ながらに犯人に哀願する様子を身ながら、彼の心にはじわじわと不安が広がっていきます。自分はこんなに求められたことがあっただろうかと。
これは彼の孤独の物語。これだけみると、不幸な境遇にある少年の孤独、とか思うかもしれませんが、実際のところは彼を取り巻くのは、まあ普通とはいわないまでも、彼を虐待していたり、特別傷つくことをしていたりするわけではありません。

例えば彼のおばあちゃんは、とても厳格な人ですが、決してエイドリアンを愛していないわけではありません。彼の孤独な心情にもわずかながら気付いていますが、彼女はそれは甘やかしになると思っている。
そうして立派に育てようと思っていながら、彼をだきしめてやりたい気持ちも持っているし、自分自身がもう子供を育てるような気力をもっていないということにも。彼女も同じぐらい孤独な人なのです。エイドリアンの母親の夫は育児に関しては全く責任も負わないろくでなしだし、彼女の息子は引きこもり気味で、もう一人の娘はモデルの仕事で忙しくたまに帰ってくると息子といい争いばかりしている。
そんな二人を見ながら、彼女はすっかり嫌になってしまい、ひょっとしたら自分はエイドリアンのほうを、実の娘や息子より愛しているんじゃないか、と思う瞬間もあるんです。

私は彼女の息子、引きこもりのローリーが好きです。彼はある理由からもうなにもかもやめてしまうんです。もう彼は草地を踏んで歩くことも、浜辺の砂の感触を味わうこともない。彼もまた、孤独な人間。その孤独でいることに陰鬱な不安を抱いていながら、もう何もする気力もないし、何かを生み出す環境も彼の回りにはない。
彼もまた、ひそかにエイドリアンを愛しています。彼はうちひしがれて落ち込んでいるエイドリアンを見ながら、どうしようもなく悲しい気持ちになり、その傷つきやすい心情に自分自身を重ねあわせ、彼の茨の未来を思います。
彼がエイドリアンのために、「ガラスは喋るんだ」とか、怪獣の絵をかいてあげたりしているのを見ると、本当に涙が出ます。(個人的にはこんなおじさんがいるだけでエイドリアンは恵まれてるとも思うんだけど…)

彼らは皆孤独なんだけど、最後までわかりあうことはありません。まあ、それが孤独ってものだからでしょうけど。誰も他人のことを思う余裕なんてないし、他人も自分のことなんかわかろうはずがないし。
エイドリアンはどんどん不安に、孤独になっていき、最後はそれが究極の形となって収束します。孤独の行き着いた先で、孤独の救いの先です。


全く明るいところのない小説ですが、文章がとても美しく、人の心情も細かく書かれていて、読ませます。というか読まずにいられないというか。

個人的な感想が以下。
これを読んで一番に思ったのは、なんで私はこの感覚を忘れていたんだろう、ってことです。エイドリアンと同じような感情は小さい時からずっともっていて、今も持っているのに、こうして活字にされて目の前にあらわされると、自分は自分自身の孤独になんて無神経だったんだ、と思います。

私も確か小さいときにエイドリアンと同じように、幼稚園でものすごい孤独を味わったことがあったし、その時その気持ちを忘れまいとも思ったのですが、いつのまにか、まるでそこは私でなくなったみたいに、切り落とされていました。ひどいことだと思います。自分の過去をゴミみたいに捨てることは。

実際私がこの小説に感化されるということは、その過去を今までずっと握ってたということなんでしょうけど、それを忘れてしまったみたいにみせてるのは、本当にサギ以外の何者でもない。自分が嫌いになりました。

ええっと、とにかく、「自分は誰にも必要とされてないんじゃないか」とか、「自分ってつまんないから友達とか出来ないんだよなあ」とか「自分やめてえ」とか一度ならず考えた、もしくは考えている人なら、絶対心にしみるでしょう。逆にまったく経験がない人ならちょっとイカれた小説に見えるかもしんない。でも、いいですよ。最近で一番よかった小説でした。

「さくらんぼの性は」ジャネット・ウィンターソン

この人はこの作品より、「オレンジだけが果物じゃない」のほうが有名かもしれません。

あらすじを説明しにくい作品です。主人公は象をも投げ上げる大女、ドッグ・ウーマンとその拾い子、ジョーダン。本に書いてあるあらすじを見ると、まるで冒険小説みたいですが、そういうものとは全然違います。
舞台は中世で、実際の歴史人物や、歴史自体も多数出てきます。

語りはジョーダンと犬女が交互に語る一人称形式です。ジョーダンは宮廷おかかえの庭師と共に旅から旅を繰り返す、放浪の日々を送る根っからの旅人。彼は旅の途中で様々なものにあいます。例えば、人の口から出た言葉があたりかまわずただようので、それを掃除する人間がいる街。様々な理由で結婚した王子を失った12人の王女たち。旅の目的は、人目で恋に落ちた「幻の女」をさがすこと、とでもいえばいいのでしょうか。
もう一つの話、犬女の話は、彼女がまあおたずねものになりながら、ムカっぱらの立つうだつの上がらない男をかたっぱしからぶっとばす、といった感じです。

このいい加減な説明でもわかる通り、あらすじは正直胸が躍ったりするものではありません。ただ、このジョーダンのであったものたちや、心の台詞がとてもいいんです。彼は旅の行く末に、心の旅というものに気付きます。どこまでも広がっていく心の地図。地図など何の意味もないこと、人は何処にでもいけるのだということ。そういうことに気付いたとき、彼の幻の恋人を探す旅は終わるのです。
彼だけが母の孤独に気付ける唯一の人間で、また彼も孤独です。でも一人であることになんらの迷いも寂しさもなく、静かに心の中で言葉を抱き、いろいろなものを見つめることができる人だと思います。

犬女は、自分の醜さや強さ、そして寂しさをずっともっている人です。でもそれらとの付き合いがあまりに長いから、外に見せたり自分で思い返して事故憐憫に浸ることもない人。とにかく無茶なぐらいに自分の正義を絶対的に信じていて、それを通すためなら人殺しなど屁とも思わない。しかし数少ない愛するものたちにはその身体と同じようにおおきな愛で答える人。とても魅力的な人物です。

この話には実はもう一つ、驚くようなオチがあります。別のまったく別の話と交じり合うのですが、そこにきて始めて、ジョーダンの心で旅をすること、時間も「自分」ということすらもまったく意味を持たないことが、すんなりと飲み込め、本をとじるときに世界がまるで、あの真ん丸い地球の形ではなく、不定形の、つかみどころのない液体のようなものだと思えました。

「時空を旅する」というのをSF的な意味ではなく、味あわせてくれる小説です。蛇足ですが翻訳もとてもうまく、流れるような文章は声に出して読むことをお勧めします。

「くらやみの速さはどれくらい」 エリザベス・ムーン

ついにクリスマス絵もなんもかかないまま別館は一年すぎてしまいましたが…最近ぼちぼち再開してます。TOP絵もやっとかえられそうです。やっぱタチカワのスクールは使いやすいなー

最近シムピープルをはじめたんですが、もうスキン改造に手を出して詩人を作ってたりします。オリジナルで出来たら楽しかろうなーと。

久々なので本レビューをやろうと思います。

「くらやみの速さはどれくらい」エリザベス・ムーン

私はこの作家さんのことは全然知らないし、ただ偶然あまりにもインパクトのあるタイトルが目に付いたから読んだだけなんだけど、なんだか凄く不思議な小説だと思いました。別にファンタジーとかそういうのじゃないんですが、不思議。

ジャンルとしてはSFだと思います。自閉症の治療が可能になった未来。ですが幼い時に治療しなければならず、主人公の青年はその治療が開発される前に成人してしまった自閉症の人です。

コンピューター関連の仕事に就き、趣味はプロ級の腕のフェンシングで、フェンシングの教室に思いを寄せる女性と、良き勝負仲間がいる。
しかしそんなある日、上司から自閉症者がリストラされるという話を聞かされる。免除される方法は最近の自閉症治療を受けること。しかし実質は生体実験のようなシロモノ。主人公は手術を受けるべきか思い悩み、彼のとった決断は…という話。

自閉症者のSFというと「アルジャーノンに花束を」が有名ですが、これも未来小説の設定をうまく使った小説だと思います。あらすじをみると結構ありきたりというか、お涙頂戴かと思うかもしれませんが、これがどうして大真面目な小説なんです。

まず、主人公の自閉症者の描写がとてもうまくできていると思います。彼は自閉症者なんだけど自分自身でやっていくということをずっと目指してきた人で、所謂「普通の」人たちの間で、違和感を感じつつもうまくやっていこうとしてるんです。たいていの人は彼が自閉症だと気付かない。でも自閉症の彼にとって普通の人たちの生活は理不尽であまりにも無作為。その彼の感じる不安や不満みたいなものの描写がとにかく細かく、ずらずらつながっていく彼の思考の流れともいえる文章の形にしっかり表れています。

それとこういう小説が安っぽくなりがちな、「周りの人は皆敵」なんてことはなく、むしろ魅力的な人が多い。例えばフェンシング教室の講師は、いち早く主人公の才能を見出し、彼を「自閉症患者」ではなく「1人のフェンシング選手」として扱うんです。彼らが練習を重ね、大会に出るところはちょっと感動します。

確かに嫌がらせをする人もいることはいるし、それが主人公の成長に関わっているシーンもあるといえばあるんだけど、個人的にはこの小説は、社会的なメッセージがあって「差別はいけませんよ」とかそういうのではなく…1人の人間としての自閉症者、自閉症者がなにをみているのか、そして自閉症者があくまで「1人の人間として」何を選択するのか?ということを書いている気がしました…。

つまりそこには少し、自閉症者や精神病者に理解の無い人がしょっちゅう口にしがちな「かわいそう」といった甘ったれた感情ではなく、自閉症者自身の努力が必要なのだという、少しつきはなしたように取れるような、そんな感情があるような気がしました。
自閉症者と普通の人という境界を自分からひくのではなく、中にとけこむよう努力しなければならないのだと。でも主人公はこの状況を決してよしとしているわけではなく、自分が「普通じゃない」ことに不満を抱いているふしがあります。だからこそ、手術を迫られたときに思い悩むのは、「もし自分が自閉症じゃなくなったら自分は自分なのだろうか?」ということ。

多くの人が、単純に自閉症が治るのはいいことで、それは普通の人になることだという考え方をしますが、自閉症の人にとってはおそらく自分が自閉症というのが一つのアイデンティティなんですよね。
だって自閉症の人はある種の精神病の人のように、幻覚が見えていたり妄想癖があったりするわけじゃなくて、世界を違う風に認識している人たちですから。
この本にも例として挙げられていましたが、何百台も車が止まっている駐車場を見て瞬時に、「赤の車は○台、白は○台、青は…」と理解してしまうんだそうです。他にも地面に落とした藁の数を瞬間的に認識したり、私達には到底理解できない世界認識をしている。これはアイデンティティだと思いますよ。世界の見方が変わるんだから。

だから主人公は悩む。彼は頭脳は優秀で、身体能力もある。小さい頃は宇宙飛行士が夢だった。でも自閉症だからその夢が破れた。手術をしたい気持ちもある。でも手術をしたらフェンシングはおそらくもう出来ない(彼は相手の行動をパターン化して考える能力があるからフェンシングが強いので)。

私が不思議な小説といったのは、その結末にあります。彼の選択と、それにともなうもの。なにが不思議ってそこには彼の選択が正しいのか、正しくないのか、作家の心情がなにも読み取れないから。
彼本人はとても満足している結末で、ハッピーエンドとも取れます。でもなんというか…凄く不思議な読後感なんです。読んでいるほうは。彼がこれからどこに向かうのか、そんなことに思いをはせながら本を閉じ、ベッドの中で暫く考え込んでしまいます。結構小説は読んでるつもりですが、この読後感はちょっとあんまり味わえないです。

あとこれ、自閉症者の心理としても詳しいんだけど、なんというか、何かしらちょっとしたことで傷ついちゃったりとか、一つのことにいつまでも固執しちゃって前に進めなかったりとか、まあつまり私なんですが、そんな人が読むと、なんとなく日々感じている孤立感みたいなものが主人公とリンクしちゃって、なんか複雑で切ない心情になったりします。

ストーリー自体結構面白い、ハラハラな展開があったりするし、なんといっても自閉症者が主人公という一風変わった設定もページをどんどんめくらせてくれます。どうも今回のレビューは固いんですが、全然そんなこと無いです。気にせずエンタメと思って読んでみてください。小説ですからね。ちなみにネビュラ賞受賞作。SFファン、奇想ファンは迷わず読んどけ、です。

あとこの面白いタイトルですが、なんか作家の人の息子さんが自閉症らしく、彼が「お母さん、暗闇のはやさってどれくらいなの?」と聞いたのがモトネタだとか。
彼女は「暗闇にはやさは無いのよ」と答えたんだけど、息子は「光にはやさがあるんだから暗闇にもはやさがあるはず」っていったらしいんです。つまり光に闇が追いついたからあたりは暗くなるんだと。凄い発想ですよね。

しかしやっぱり身内に自閉症者がいる人だったのか…どうりで、お母さんならではの「強く育て」という思想が感じられると思いました。
今彼らがどうしてるのか気になるなあ。