宇宙飛行士ピルクス物語(上・下)/ スタニスワフ・レム

連中は存在しないのだろうか?だったらあのときかれに呼びかけたのはいったいだれだ?だれが助けを必死で求めていたのだ?専門家たちが、その絶叫の裏には、電荷の循環と、電極板の共鳴が引き起こす振動振動以外のなにものもないというのだとしたら、それでなにか事態が変わるだろうか?
……かれは、機械に罪はないと思った。人間は機械に思考能力を与え、まさにそのことによりかれらを自分たちの狂人じみた所業の共犯者に仕立ててしまったのだ。ゴーレムや、人間に刃向かって反乱や暴動を起した機械たちの伝説が、本来ならばそのいっさいの責任を負うべき者が、それを回避するためにでっち上げた嘘である事に思いを馳せた…
(p221-222)


久しぶりです。
今回は文庫化するのをずっと待っていた作品。(といっても文庫化したのもかなり前なんですが)私はハードカバーを図書館で読み、SFにハマるきっかけになりました。「ソラリス」と並んで、大好きな作品です。

この作品はピルクスという宇宙飛行士が活躍する短編の連作になっています。
彼が初めて宇宙をとぶことになる、ペーペーの学生時代からはじまり、「自動装置の敵」と陰口を叩かれるような百戦練磨の宇宙飛行士になるまで、非常に多種多様な面白い作品になっています。

この話の特徴は、なんといっても主人公、ピルクスにあります。
かれは顔は丸顔、ぽちゃぽちゃしてとてもかっこいいとはいえない、しかも学校の成績もよろしくはない。しかし、特殊な状況におかれた時の本能的な判断の早さ・正確さ、土壇場での度胸は段違いであり、まさに天性の宇宙飛行士といった趣があります。
しかも彼はとても人間的で正直でもあって、ロボットのみせる人間的な部分に共感したり、逆に人間そっくりにつくられたオートマトンに対しては嫌悪感と反感を隠さなかったり。ただとても理性的で知的な人間でもあり、正義という感情に流されることはない。主人公は色んなタイプがいますが、ここまで魅力的でしかもあまり腹がたたない主人公って珍しいんじゃないんでしょうか。

個人的にこの物語に惹かれた理由の一つは、多種多様な短編で構成されていながら、その底辺は一貫しており、その部分がとても共感できるからです。それはおそらくレムが他の作品でも描こうとしている、「人間とテクノロジーの関係」というものです。
例えばアシモフであれば、ロボット3原則を底辺にして、非常にすぐれたロボットを描きだすわけですが、レムにとってロボットはどこまでも「機械」にすぎません。しかし、その機械を「人間的」と感じさせる要素はあって、でもそれはあくまで人間というフィルターを通して作られたことによって生じる人間性であり、間違っても自我や人間のコピーではありえない。

たとえば「テルミヌス」という作品。おんぼろ宇宙船で貨物を運ぶ任務についたピルクスは、その内部でこれまた年季のはいった壊れかけのロボットに会います。実はこのロボットは昔事故にあったこの宇宙船の唯一の生き残りであり、その事故を記憶が残っており、ある「動作」をします(この作品はとても面白くて、恐怖心も感じる話なのでちょっとネタバレ隠し)。
それは一見人間的にもみえるのですが、ピルクスはやはり「あいつはただの鉄の塊だ」と結論するのです。この行動はロボット本人の判断ではなく、そのロボットに偶然記憶された人間のなにかだ、と。
他にも、人間が過去に起こった事故を意識するが故にカン違いをする「条件反射」、パトロール中に宇宙船が失踪する事件をピルクスが解明する「パトロール」、宇宙船が墜落する原因となった自動装置の謎を探る「運命の女神」など、多くの作品が、人間が自分たちのつくりだした機械というものを、その人間の精神のいうフィルターを通して見るが故におこる出来事を描いたものが多い。

ちまちまこのブログでもいってますが、私はSFのSよりFの部分の方が好きです。じゃなんであえてSFというジャンルを読むのかというと、SFのもつ手法というかギミックが、「人間」というものを中心にした物語を非常に面白く表現してくれるからです。そういう意味ではこのピルクス物語は私のなかでSFのパーフェクトに近いのです。
擬人化されたロボットや、友好的な宇宙人といった話も嫌いではないのですが、読みながらそれを腹のそこから信じていたり、リアリティを感じたりはしない。でもレムという作家の書く宇宙や機械といったものの表現は、なにか私にそれを感じさせるのです。
それは「未来にこうなって欲しい」とか、「こうなるだろう」ではなく、「今まさにこうであるし、未来も永劫変わらない」という感覚で、それを科学的知識に裏打ちされた非常に濃密な描写で描かれると、なんというか、フィクションなのに妙な現実感があるんです。

濃密な描写とかきましたが、この人の作品は風景描写なんかもすごいです。火星や月の描写なんか、その惑星に対するピルクスの思いもふくめて、まるで見てきたようで、何者なんだろうと思ってしまいます。
それが現実であるかどうか、っていうのはどうでもいいんですよ。「見てきたようなウソをつき」というのが、とっても上手い。
例えば娯楽SFなんか読んでいると、目はどんどん進むんだけど読み終わったあとにある一場面がしっかり残ってるってことがなかったりするんですが、この作品は読みながら少々冗長に感じても、読み終わった後にピルクスの心情や風景がふっと頭に浮かぶことがあるんです。映画でもそうですが、退屈だったと思っても見終わったらある絵が頭の中にのこっている、そういう作品ってありますよね。私にとってレムはそうなのです。(や、この作品は娯楽としても面白いのですが)

上ではあんなことかきましたが、ロボットが擬人化に近い形になっているという話もあるにはあります。ただ、それが本当にロボットが人間に近づいているのかっていうのはちょっとわからない。ピルクスの個人的な思い入れがそうみせているようにも思う。
「ソラリス」もそうなんですけど、謎が最後まで「これだ」という答えなしで終わるってパターン、レムは好きですよねえ。

「ソラリス」などの長編作品に比べて、娯楽性もとてもたかく、例えば人間と人間そっくりのロボットとが交じり合ったメンバーで航宙する「審判」などは、ミステリとしても傑作だと思います。
個人的には「読むべきSF」のリストに絶対加えてもいい、それぐらいの名作だと思っているのですが、ソラリスに比べると知名度が低いのがとても残念です。文庫化にここまで時間がかかったというのも信じられない。是非一読を。ちなみに上下巻です。これにハマったら「太平ヨンの航星日記」もおすすめします。



ロマンティック時間SF傑作選 時の娘 / 中村融編

打ち寄せる忘却のなかでも、つねにあまねく存在する彼女が―過ぎ行く歳月のすみずみに、その歳月が打ち寄せる土地の津々浦々に、時間と空間と生命そのもののいたるところに、いつでもかならず存在する愛らしい娘が―はっきりと感じられた。あたかも実際に抱きしめているようで、忘却の闇すら愛しく思える――(p287『出会いのとき巡りきて』)

あとがきによると、日本ではアメリカよりも「ロマンティック時間SF」というものが人気が高いらしいです。信じられない話ですが、ハインラインの『夏への扉』やロバート・ヤングの『たんぽぽ娘』は、むこうではオールタイムベストでは見向きもされないのだとか。
かくいう私も、恥ずかしながらこういう類の話は大好きなのです。英米で見向きもされないというのもわかるんですけどね。こういったものの多くは、それほどSF的な科学技術や理論について論じるものは少なく、「タイムスリップ」という要素自体がある意味陳腐化している今では、正直ファンタジーの部類にいれてもいいような作品も少なくはないですから。

しかし、やっぱり私がSFというジャンルの素晴らしさを感じるのは、まさにこの短編集に収められているような作品を読んだ時なんですよね。
タイムスリップやタイムパラドックスというSF的要素を用いながらも、決して人間ドラマの方を捨ててない、むしろそのフィクションの部分をひきたたせるためのSF要素で、しかもその要素のおかげで、「時を越えた愛」という一見すると陳腐にみえるものが、心躍るものに生まれ変わるんですよ。
正直SF以外のジャンルで恋愛ものというのは個人的にはつらいのですが、SFの恋愛ものはとっても好きです。
時を越えるとか、時を戻るというのはそれ自体、「夢物語」であって、そこがある種メランコリックで哀愁がつきまとうと思うんですよね。それがSF的手法で成し遂げられ、ハッピーエンドになったとしても、なにかカラっとした気持ちにはなれない、そういうよさがあると思います。

で、この作品集ですが、現在は他では読めないものばかりということでかなり豪勢、しかも選出もよくて、正面から時間を越えた愛を扱ったベタなものから、タイムパラドックスを手のひらで転がすものまで、様々なものがそろっています。
しかし基本はロマンティックSFであり、技巧にこったものであっても決して難解ということはなく、そこにはしっかりしたフィクションの面白さがあって、個人的にはとてもいい選集だと思いました。

『チャリティーのことづて』は非常にベタな時間をまたいでの少年と少女の恋物語。導入にぴったりなライトな味わいです。
『むかしをいまに』は技巧的にかなり凝っていて、どちらかというとそっちにばかり目がいってしまうかなあ。あと浅倉さんの訳がどうにも読みづらい感じがしました。
『かえりみれば』はやはりSFというよりファンタジーに近いライトな作品で、ロマンティックSFというより、コメディに近いかも。個人的にはこの作品集の中では浮いている気がしました。

『時のいたみ』は時間旅行が当たり前になった世の中で、タイムパラドックスを最小限にするために、「未来の肉体」に「現在の精神」が宿った男の話。「未来の主人公」が何かの理由で過去に戻りたいと願ったはずなのだが、「現在の主人公」にはそれが何故かが最初はわからない、というのが面白いです。
何故主人公が過去に戻らなければならなかったのか、そして何故彼の肉体は大きく変化していたのか、「未来」が「今」に変わる、全てが明らかになる瞬間は感動的で、ラストはなんとも苦々しいけれど中年の恋愛の哀愁があっていい。個人的にこれは相当お気に入りでした。

『時が新しかったころ』は読んでいるだけでわくわくする冒険物(なんといっても時代が白亜紀!)で、主人公のベタなぐらいのかっこよさやアクションも楽しいのですが、エンディングにはちょっとビックリ。結構エンタメしてる軽い作品なのですがちゃんと最後に恋愛物になっていて感心しました。読んでいて楽しかった。
表題作は読み終わってもちょっと私には1から10まで理解した自信がないタイムパラドックスもの。主人公や他の人物の行動まで全て時間や運命という規則に縛られているような、一種の不気味さも感じると同時に、まるでミステリの謎解きを読んでいるような気持ちよさもある。

『出会いの時巡りきて』は、余りにも多くの刺激的な冒険をやりすぎて人生に飽いているワイルドガイが、ある科学者と知り合い、その科学者の作った特殊な装置で時間を一瞬であちこち旅する話。
物凄く壮大で、気の遠くなる時間をいったりきたりしながら、生まれて初めて恋した「永遠の女」を捜し求めるというストーリーはこの選集に一番ふさわしい話かも。一種の神々しさを覚えるエンディングがとても印象深い。翻訳も何だかとても古めかしく美しくて、ちょっと音読してみたんですけど気持ちよかったです。あと、この主人公がいいんですよね~金髪・巨躯でゴツくて傷だらけの顔。どうもこういうベタなワイルドガイに弱いです(笑)。

『インキーに詫びる』は、すっかり音楽的才能をなくした音楽家が、過去を幻覚のようにみるようになり、その過去の謎をとくために別れた恋人に会いにいく、という話。現実を変えたりするわけではなく、過去の「記憶」を確かめるために現在に残された手がかりをさぐりながら、最後には過去が現在に現れることによって真実が明かされる、という、「事実」と「記憶」の構造が技巧的で面白い。
前書きから難解そうだとかまえていたんですが、ゆっくり読んでいれば前後関係もつかめるし、決して技法に溺れることなく、少年時代のノスタルジックで繊細な思いや、魅力的なヒロイン、そして非常に希望に満ちたエンディングなど、感動的でラストにまさにふさわしい話でした。

どれもいいんだけど、私的にいいなあと思ったのはジャック・フィニィの『台詞指導』でした。主人公は映画の台詞指導係。今撮っている映画に出演しているとびきり美人の女優に恋しているが、今その女優にあるのは映画を通して出世したいという野心ばかり。1920年代を舞台にした映画を撮るために借りた古いバスがちゃんと動くかどうか、少々の遊び心もあって、映画のスタッフが皆で乗り込み、深夜に町に繰り出すのだが、何か様子がおかしくて…。
タイムスリップの理論がしっかり語られているわけではなく、ファンタジーよりな設定ですが、全編通して古い時代へのノスタルジーと、メランコリックな雰囲気に満ちていて、凄く好きです。ラストの切なさは個人的にこの選集随一で、恋というものと時間というものを同時に悟るヒロインの心理描写がいいです。
「人はしばしば一目で恋に落ちるが、稀なのはそれに気づく人なのだ」という文章など、読みながらはっとさせられることも多くて、なんというか、これはもうある種ジャンルを越えた恋愛小説だなあと感動しましたよ。フィニィは読んだことなかったけど、コレを読んでやっぱ人気ある作家さんだけあるなあと思いました。どうも文学的な才能がこの中でもズバぬけてる気がしてなりません。

不満といえば、「これはロマンティック時間SF集だ」と銘打っているため、読みはじめると中盤辺りから少し展開がよめることでしょうか。これらの作品がもっと違うアンソロジーに入っていたらもっと楽しめた気がしてなりません。

しかし、毛色の違ったSFアンソロジーとしても、また毛色の違った恋愛小説としても、なかなかに面白い選集だと思います。
私個人は恋愛ものの小説を読んでいるというのも恥ずかしいぐらい、女っけも男っけもねえ奴なんですがそれでもロマンティックな気持ちになれましたよ。
恋人の贈り物なんかにたまに毛色の変わった本として、どうでしょう。

見えない都市 / イタロ・カルヴィーノ

「朕が昨夜、夢で何を見たか語って聞かせよう」と汗はマルコに言う。
「隕石と漂岩の点々と散らばっている、平坦な黄土地帯のただなかで、朕が遠くに見たものは、ほっそりと伸びた針のような都市の尖塔が聳え立つ姿であり、それは月が運行の途中で、時にはこの塔、また時には向こうの塔の上にと、その上で休むことが出来、あるいは起重機の綱の上にとまってゆらゆらとぶらさがっていられるようにというわけなのだった」

するとポーロは――
「陛下が夢の中で御覧なさった都市はララージュでございます。夜空に留まっているようにというこの祈願をその住民が行いますのは、月がその都市にある全てのものに限りない生育と増加を授けてくれるようにというためなのでございます」

「そのほうの心得ておらぬことがあるぞ」と汗が言い添えた。
「月がララージュの都市に感謝の印として与えたものは、いっそう稀有な特権なのだ。すなわち、軽やかに成長するという特権である」(p93~94)


イタロ・カルヴィーノ、大好きな作家です。イタリアの作家というとこの人かディーノ・ブッツァーティは絶対知っておくべきです。それぐらい、魅力的で個性的な作家だと思います。

この小説は、マルコ・ポーロがフビライ汗に、自分が見聞きしてきた都市の話を物語るという形式で話が進みます。しかし、一本のつながった物語ではなく、非常に短い章仕立ての、都市の話だけで成り立っているような物語です。
間間に、ポーロとフビライの会話が挿入され、それがこうした都市の物語をどのように考えるのかのヒント、奥行きを与えてくれますが、それにしたところで一見意味がないもののようでもあり、また、この二人が出るからしっかり時代が固定されているわけでもなく、空港やジェットコースターなどの話もでてきたりして、どこまでももやもやとしたつかみどころのない本です。

この都市の物語は様々で、同じまっしろな微笑んだ顔の人が毎年延々と増えていく都市や、天空に黄金の都市があると信じ、それを完全に模倣しようとする都市、都市からでる廃棄物を、都市から遠ざけようとするあまりにその汚れに取り囲まれてしまう都市など、奇妙なものばかりです。
マルコはこれを実際にみたもののように語るわけですが、そこにはなにかほら吹き男爵の冒険などにも通じる、とんでもないほらというふうに感じられないわけでもない。実際に物語の中でも、汗はマルコにそなたの語る町など存在しない、とごねたりする。
それでも、マルコはどこまでも淡々と都市の話を物語ります。こうした実際には存在しないようにみえる幻想的な都市の話には現代の都市を皮肉る寓話的方向性がないでもない。でも、この物語をそういう見方で見てしまうのはちょっともったいないものでもあります。

確かに、これらの都市は一見すると病んでおり、その問題点は我々が生きる時代と符合している部分もあるけれど、ただ都市というものの病んでいる姿ばかりを映し出しているわけではなく、様々な世界の多様さ、都市というものの面白さもまた、現れているからです。
マルコの語る都市の話に共通しているのは、都市があたかも独自の思考でその姿になっているように思えることです。私達は人間こそが都市を作り出すと思っているが、この本に出てくる都市はその存在によってすんでいる人間を作り出しているようでもある。
読んでいるうちに、人が住むためのもので、暮らしやすさを優先して徐々に作り上げていくものだ、と思っていたのが、都市をつくりあげるのは確かに人だけれども、そこには利便性を越えた人間一人一人が気づかないような「哲学」が入り込んでおり、その個性の強烈さゆえに、そうして作り上げられた都市がまた人間をつくっていくのではないだろうか、というふうに変わっていきました。
幻想小説であり、限りなく非現実的な小説でありながら、なにか都市というもの、さらに広げれば人工物というものの、本当の姿を覗くことが出来たような、そんな気がしました。

これは本当の意味で「旅」ができる本だと思います。
ガイドブックで写真を見るだけではできない旅。それどころか、実際に自分の足で歩いてもできない種類の旅かもしれません。本にしかできない旅。
それとも、本文でマルコ・ポーロが「私はどこの都市について語るときでもベネツィアについて語っているのでございます」」といったように、読んで旅をしているつもりなのに本当は自分の精神は自分の故郷から一歩も踏み出していないのかもしれません…。

黒い玉・青い蛇 トーマス・オーウェン

SFをまとめて買ってしまい、読む時間がないという幸せ。やーやっぱ面白いよね、SFは…。

久々にレビュー見返してみたんですがネタバレ全開ですね(笑)。
そういう趣旨なのですが、もう少し押さえて書いてみようと思います

今回はでもSFじゃありません。ホラー。

文庫で2巻でてまして、表紙がルドンの不気味な白黒絵なのもポイント高いです。
短編集で、黒い玉の方はどちらかというと生理的な嫌悪感を覚えるもの、青い蛇の方はパンチ力はないものの、じわじわきいてくるボディブローのような不気味さがあります。どちらも短編モノでは一級の出来じゃないでしょうか。私は昔これを図書館で借りてからとりこになり、文庫になったのを知って即座に買いました。そんぐらい好き。

ホラーといってもキングのようにストーリーとして1級のキャラクター造形があるとか、クライブ・バーカーのようにグロ描写が非常にアーティスティックだとかそういう物凄い個性があるタイプではなく、どちらかというとブラック・ユーモアの短編に近い読後感です。
ただ、これがなんだか背中を撫でられるような不気味さがある。『何だかわからないから怖い』というタイプの内容で、幻想的で何処となくヨーロッパらしい重圧感と品があり、アメリカのホラーではまず味わえない空気感があります。

解説にもかいてありますが、この人の作品で興味深いのは、トランスフォームがよく出てくることです。
ホラーにおける変身はメジャーですが、この作品集における変身は、狼男の変身のように劇的なものではなく、どちらかというとカフカの「変身」に近い、比喩的なものとしてのトランスフォームです。

でも微妙に違う。あのように回りも認めている変身ではなく、その感覚は「見間違い」に非常に近いのです。

例えば、暗闇を歩いている時ふっと目に入った電柱の影に、誰か(もしくは何か)が見えた気がして、
慌ててもう一度見返す。でも、もういない。見間違いだったのか、という感覚。
それが果たして本当に見間違いだったのか?本当は何かいたんだけど、見返した途端いなくなっただけじゃないだろうか?それを確かめるすべはありません。この作品集の変身はそれに非常に近い。

例えば、ある話では、不貞を働いた娘の話をきいた父が、怒りに駆られたまま彼女に会いに電車にのります。

頭の中では、「雌犬め」と彼女を罵り、苦々しい思いでいると、個室に本当に雌犬が現れる。どこからどこまでも不愉快なその雌犬と、彼は格闘をし、窓からほおりなげてしまう。しかし、電車を降りてみると死んでいたのは彼の娘。「たいへんなあばずれだった」などと話す周囲に対して、彼は「私の娘だ…」と叫ぶけれど、周りは冷徹な顔をして、彼と娘につぶてを投げつける…。

どこで犬が娘にトランスフォームしたのか、わからないままです。そもそも本当に彼が殺したのは自分の娘だったのかともいえる。本当は娘にみえて犬かもしれない。犬に見えたのに娘だったのと同じぐらい確実な話です。どこまでもあいまいな、「何か」と「何か」の境界。

本来なら見間違えようのないものが、何かをきっかけにあっさりと敷居を飛び越え、まるで現実は幻のように「あれはなんだったのか」と一生わからない問いを主人公に残していく。これがこの作品集の怖さだと思います。

しかもその元の形には決して戻せないんだよね。幻のように見えて全て現実で、元の形には戻らないの。
それが怖いんだよなあ。夢の中で誰かが死んじゃったり、自分がどうしようもない状況に追い詰められたりするとこんな感覚に陥る気がする。

なんかヘンなたとえですが、「青い蛇」の作品群をみてると、昔大好きでよく見てた「Xファイル」思い出すんですよね。あれもなんか、結局出来事が未知のものによるものだったのかそうじゃなかったのか、わけのわかんない煙にまくようなオチで終わってた記憶があります。

あんななげっぱなしジャーマンではありませんが、この作品集は何か理解できないものを、理解するという謎解きオチなどすることなく終わらせ、それによって独特の読後感が生み出されていると思います。

ただこういうぼやぼやしたものばかりではなくて、割と直接的なものやユーモラスなものなど幅も広く、 「次の短編が読みたい!」と思わせる質の高い作品がそろっていて、ホラー小説を普段読まない人にもおすすめできると思います。

余談ですけど、私中学ぐらいのときにこれの「青い蛇」にはいってる「雌豚」読んで、無茶苦茶興奮したという恥ずかしい過去があります…。何か、すごい生々しくてエロティックなイメージがずーっとついてしまって、 書店でこの文庫見かけた時も一番によぎったのはこの短編のことでした…。
ガキのころのスケベ心、おそろしや。

平家物語(百二十句本)2

だいぶ間が空いてしまいましたが、続きです。

平家物語には宗教性の強い描写が多く、そこが非常に魅力的なんですが、もちろん軍記ものなので、戦闘描写も 多彩であります。
最初は平家の公達がナヨナヨしてるようで、源氏方の方がかっこいいかなーなどと思っていたのですが、何周かするうちすっかり平家方のとりこになってしまいました。

個人的な最近のマイブームは、平重衡、平忠度、越中前司盛俊あたりでしょうか。
重衡は、武士貴族を絵に描いたような人で、戦も達者でありながら、音楽もたしなみ、和歌もうまく、人格的にも非常に闊達としたさわやかな人だったようです。
この人は悲劇の人で、坊主どもを攻めた時奈良の伽藍を焼いてしまい、その罪のため生きたまま捕らえられて、坊主に引き回された挙句処刑されてしまいます。当時としては伽藍を焼くなど最大級の罪でしたから、酷い目にあって殺されたのじゃないだろうかと思うと気の毒で仕方ありません。
彼が死ぬ前に預けられた屋敷で千手という女性の唄に琵琶を合わせるシーンは能にもなっている名シーンですが、ここの重衡はまた、死ぬ間際だというのにクールなユーモアを感じさせて実にいいのです。

忠度は有名なので説明も不要な人ですが、大変に和歌にすぐれ、京を離れる時に和歌を託して選集に載せてもらうよう頼む、死ぬ間際も、しころ(カブトのびらびらしたとこ)に辞世の句を手挟むなど、とにかく歌に対する執着が凄い。それでいて戦っても強いというのが本当にかっこいいです。

越中前司は所謂マッチョキャラです(笑)。「7,80人がやっとひきたる船を頭の上にもちあげ、またおろす」ことができるほどのマッチョだったらしい…スゲエ…。
この人は最後が気の毒で、源氏の武者をその怪力でもっておさえつけ首をかこうとするのですが、そいつが「まって!降参するから!」というと、意外とさっぱりした人だったらしく(笑)、それなら、と気を許すのですが、その後源氏の武者の部下が現れ、二人で協力して彼を討ってしまいます。いつの時代にも、得するのは卑怯な奴というかなんというか…。

それと、やっぱりカッコイイ武将といえば個人的にはずせないのは、義仲の部下、今井兼平です。もうすげえ好きなんですよこの人。名前聞くだけで異様に反応するほど。
義仲とはめのと子の仲で、兄弟のような関係、それでいて武士としての忠節も厚い人。義仲とは最後2騎になるまでつれそい、「いつもはなんとも思わぬ鎧が、今日は重うなったるぞや」と弱音をはく義仲を、「御身も未だ疲れさせ給ひ候はず。御馬も弱り候はず。(中略)臆病でこそ、さは思し召し候ふらめ。兼平一騎をば、余の千騎と思し召し候ふべし。」と、義仲を励まし、いよいよ危なくなると、「お前と共に戦って死にたい」と訴える義仲に、何処のものとも知らない兵に切られて死ぬのは後世の汚点となる、といって自害するように訴える…。
義仲がまた、ちょっとうっかりさんというか、あまりに純真すぎるところがあるので(笑)それを支える兼平が非常に献身的でかっこよく見えるのです。結局義仲は、自害しようとして馬で松原に向かう途中、凍った田んぼを踏み抜いてハマってしまい、身動きが取れなくなり、「今井の行方のおぼつかなさに」振り返ったところを矢でいられます。兼平の願いは届かなかったわけです。切ない…。
兼平は最後は「武士の自害する手本よ」といい、口に刀をくわえて馬から飛び降りて死にます。(グロ)

こうしたエピソードの連続で作られているのが平家物語です。映画化やドラマ化が難しいのは予算もありますが、このエピソードの積み重ねで作られる作品の難しさではないでしょうか。
平家物語のモチーフは近代文学者もよくかいていますが、そうした作品はどうも…平家物語の持つ魅力をいちじるしくかいているように思われるのです。
その理由の一つは、やはり感情描写が殆どない平家物語のドキュメンタリーチックな手法が、近代文学の饒舌な形に変えられると、急に陳腐に見えること。不思議な話ですが、平家物語なんてのは昔の文学なので当然、テンプレートにそってかかれてる訳です。歌の引用による風景描写や、合戦の様子にいたるまで(さしつめひきつめ散々に射る、とかしころをかたぶけ、とか)、同じような文章が使われているのに、それが決して人を飽きさせることがない。
それはやっぱり、そのテンプレートを使うにしてもまったく手を抜かない、一挙一動にいたるまで行動を抜き出すような、偏執的なまでの個人個人の描写に真剣だから。
「今こう思っている」ということをセリフで抜かなくても、それらの態度から思いを想像させるのです。

近代文学はどうしても私小説の悲しさで、「気持ち」を書いてしまう。これが平家物語には著しく相性が悪いのだと思います。平家物語に限らず、所謂武士階級のための芸術というのは、「想像」というものを非常に重視している。
例えば能です。歌舞伎はやはり、ある程度の舞台装置や、俳優の容姿などが重視されるわけですが、能にはそれがないわけです。紙で囲んでしまえばそれは船であり、この世に無い人は皆面で表現されてしまう。それはやはり、昔の人はそうしたものを説明する必要が無かったからだと思うんですよね。武士にとって、平家物語に出てくる悲劇の人々の顔、気持ちといったものは、容易に想像できるものだったんじゃないでしょうか。だからいらないものをどんどんどんどん省いていって、それが彼らにとって究極に感情移入できる、もう一つの人生として舞台に再現されたのではないかと思うのです。

それと、近代文学と平家物語の相性があわないもう一つは吉川英治の新平家のようなものは例外として、多くの近代文学がかいた平家物語はその一部なわけですけど(芥川や菊池寛の俊寛とか。菊池寛のはある意味面白かったけど)、一部を抜き出した途端平家物語の魅力は失われるんですよね。
上であげた、木曽最後の場面なども、平家滅亡までにいたる歴史の中で描かれるからこそ印象に残るのであって、単体として抜き出すと、何だか陳腐に感じると思います。
これこれこういう人々のなかに、義仲という人がおり、兼平という人がいた、それが平家物語の魅力でありパワーなんではないでしょうか。
人の細かなエピソードで成り立った群雄絵巻なんだと思います。それはのちの軍記ものに比べたら、女々しくみえるところや、宗教の匂いが強い部分が、人によってはあわないのかもしれない。でもそれはまさしく平家物語しかもたない個性だと思います。

私はこの物語を一読で大ファンになりましたが、2度よむと、また全然違う魅力があってますますひきつけられました。古典にこんなことをいうのもヘンですが、私のオールタイムベストです。

最後に、あえて「百二十句」とかいたことについて。

平家物語は多くのバリエーションをもち、それが平家物語を「研究するのも読むのも面白い」といわせる理由です。この百二十句がのっているのは新潮の古典集成。今は文庫で気軽に平家物語は読めますが、個人的にはこの新潮古典集成のものがおすすめです。その理由は

・横に字幕のように現代語訳がついており、原文を読みながらわからなかったら字幕を見る、という読み方ができること。

・注が非常に充実しており、他本との差や史実ではどうだったかなど、よりいっそう興味が深まる

・名前の注が細かく、前にでた名前でもでるたびに説明がついたりするので私のような忘れっぽい人でも安心

・今一番手に入りやすい、岩波文庫文庫本になっている覚一本と違いがあるが、特にラスト。「断絶平家」と言われる形で、覚一本のしんみり終わる形よりも、いきなりパタリと終わってしまう無常観のある終わり方。両方よんだがこっちのほうが個人的には好きでした。

などの理由。買うのはちとキツいので、こっちを図書館とかでかりて読んでから、岩波の文庫を買って読み返すのが理解が深まるし手軽でいいかなあと。

どちらにしても、名作には違いないです。敷居は高いように思いますが、ハマると危険です。

平家物語 (百二十句本)

どうもご無沙汰です。

今回は何故今更、と言われそうな古典のレビューです。

実は私、殆ど学校というものにいってないのもありますが、古文が苦手で、名作といわれるコレも避けて通っていたのです。
しかしよんでみると、あまりの面白さに感動。正直、最近ちょっと小説に飽きたかもしれん、などと思っていた矢先だったので、たちまち読書EDから抜け出すことができました。素晴らしい。

今更いうのもなんですが、平家物語というのは清盛の平家絶頂期から、源氏との戦いに敗れて壇ノ浦に多くが沈み、平家終焉までを描く歴史絵巻です。
しかしながら時代が違うので、今イメージする「歴史小説」では当然ないわけで。意外な話ですが、この長い話の中で合戦シーンは終盤に固まっているばかりで非常に少ないのです。
じゃああとはどんな話かというと、例えば清盛に翻弄される白拍子の話であるとか、流された謀反人の話だとか、これから首を切られる惟盛の少々くだくだしいぐらいの思いであるとか、

もしこれが今の作家が書く物語だったら、鵯越や宇治川など名だたる合戦、大きな歴史イベントにページをさくはずです。しかし平家物語はあろうことか清盛の息子、重盛が親父にする長ったらしい説教に何ページもページ割くんですよ。ありえない。てか小松殿嫌いです。喋りすぎじゃ。
だから、なんでこんな所こんなに長いの?っていう部分が、今の人から見ると沢山あるわけですよ。

でもこれこそが、このエンターテイメントとして完成されていない所にこそ、物語の本質があるんじゃないのかなあと思うのです。
それはつまり、書く人、語る人の感情移入の問題で、ここは美しいと思うからここばかりを語る、逆にここは魅力を感じないからはしょる、というような。
考えてみれば歴史小説であっても、歴史ではありえないわけで、じゃあ歴史が何なのかといえば、結局書き起こされた歴史というのは物語でしかないはずで、物語というものは多分にその時代を生きる人の感情ではないかと思うんです。

興味深いのは、平家物語は物語としてかなり改ざんされた歴史なんですよね。実は一の谷にまけたぐらいでは、平家はまだ強い力を持っていたんですが、平家物語ではあたかももはや平家は終わりであるように、物悲しく描かれている。それは物語が「盛者必衰」でなくてはならないからです。
平家は消え入る運命にあるということが、物語として設定されているから。そしてその物語は実際に平家の時代が終わったという歴史にそって織られているわけです。

こういうふうに物語としてアレンジされていてもなお、今の私達にとって退屈だとか理解できないと思わせるのは、その当時の人の考えが私達と違うからなわけで。
つまり平家物語を読むことは、単純に物語を味わうということのみならず、当時の人のものの考え方をダイレクトに受け取っていることになるのですね。

仏教や神教の色合いがどのような人々の背後にも見えるのをみるにつけ、これが私と同じ日本人なのだ、と理解するのもなんだか困難なほど、そこには隔たりがあると思います。「古きよき日本」なんていう言葉じゃ片付けられないほど荘厳で、呪いや祈りに満ちた日本の姿がそこにあるのです。そしてそれこそ、物語を読む楽しみなのではないかと思いました。

こういう、物語としてあまりに偏った描写をする平家物語の魅力に気づいたのは、俊覚の部分でした。
鹿ケ谷の陰謀で謀反をたくらんだ俊寛・成経・康頼が鬼界ヶ島(今の硫黄島)に流され、暫くたったのちに許しが出るのですが、赦文を持った使者が島にたどり着いた時、成経・康頼はでかけており、俊寛が文をうけとります。興奮して文をあける俊寛ですが、そこにはなぜか俊寛の名前がありません。

…俊寛という文字はなし。礼紙にぞあるらんとて、礼紙を見るにも見えず。
奥よりはしへ読み、端より奥へ読みけれども、二人とばかり書かれて、3人とは書かれず。

ここで二人帰ってきて、同じように文をみるのですが、やはり3人とはかかれていません。信じられない俊寛の嘆きは強烈です。


「そもそも我ら三人は、罪も同じ罪、配所も一つところなり。いかなれば赦免の時、二人は召しかへされて、一人ここに残るべき。平家の思ひ忘れかや、執筆のあやまりか。こはいかにしつる事どもぞや」
と天にあふぎ地にふして泣きかなしめどもかひぞなき。少将(成経)の袂にすがって、
「俊寛がかくなるといふも、御辺の父、故大納言殿よしなき謀反ゆえなり。さればよその事とおぼすべからず。ゆるされなければ、都までこそかなはず共、この船に乗せて、九国の地へつけてたべ(後略)」


必死に嘆く俊寛に、成経たちは、都に戻ったら清盛に相談もしてみるから、と適当にあしらって、船にのります。
狂ったようになった俊寛は、ほどいたとも綱にすりより、水が腰まで来ても、脇まで来ても、すがりついて泣き叫びます。「さていかにおのおの、俊寛をば遂に捨はせ給ふか」と…。

平家物語屈指の、恐怖と悲しみを誘う名シーンです。この感情に訴える描写はすさまじい。紙を繰り返し繰り返し眺めるところや、人のそでにしがみついて泣く姿が、嫌でも目の奥に浮かんでくるようです。

でもこの俊寛は実際には、許されなかったわけではなく、もう島でなくなっていたらしいのです。つまり、平家物語の完全な創作なわけですが、そういわれても、もうこのシーンをみてしまえば、俊寛という人物を「存在しなかった」と片付けることは出来ないでしょう。物語の人物が、紙の上にかかれた文字をこえていきいきと存在し始める、その物語の強烈な魅力が平家物語にはあるのです。

そしてそれはこの物語をつらぬくこの時代の人々の、呪術的で宗教的な感性となにかしら関係があるような気がします。
何か長くなりましたが、語り足りないので次に続くと思います(笑)