だいぶ間が空いてしまいましたが、続きです。
平家物語には宗教性の強い描写が多く、そこが非常に魅力的なんですが、もちろん軍記ものなので、戦闘描写も 多彩であります。
最初は平家の公達がナヨナヨしてるようで、源氏方の方がかっこいいかなーなどと思っていたのですが、何周かするうちすっかり平家方のとりこになってしまいました。
個人的な最近のマイブームは、平重衡、平忠度、越中前司盛俊あたりでしょうか。
重衡は、武士貴族を絵に描いたような人で、戦も達者でありながら、音楽もたしなみ、和歌もうまく、人格的にも非常に闊達としたさわやかな人だったようです。
この人は悲劇の人で、坊主どもを攻めた時奈良の伽藍を焼いてしまい、その罪のため生きたまま捕らえられて、坊主に引き回された挙句処刑されてしまいます。当時としては伽藍を焼くなど最大級の罪でしたから、酷い目にあって殺されたのじゃないだろうかと思うと気の毒で仕方ありません。
彼が死ぬ前に預けられた屋敷で千手という女性の唄に琵琶を合わせるシーンは能にもなっている名シーンですが、ここの重衡はまた、死ぬ間際だというのにクールなユーモアを感じさせて実にいいのです。
忠度は有名なので説明も不要な人ですが、大変に和歌にすぐれ、京を離れる時に和歌を託して選集に載せてもらうよう頼む、死ぬ間際も、しころ(カブトのびらびらしたとこ)に辞世の句を手挟むなど、とにかく歌に対する執着が凄い。それでいて戦っても強いというのが本当にかっこいいです。
越中前司は所謂マッチョキャラです(笑)。「7,80人がやっとひきたる船を頭の上にもちあげ、またおろす」ことができるほどのマッチョだったらしい…スゲエ…。
この人は最後が気の毒で、源氏の武者をその怪力でもっておさえつけ首をかこうとするのですが、そいつが「まって!降参するから!」というと、意外とさっぱりした人だったらしく(笑)、それなら、と気を許すのですが、その後源氏の武者の部下が現れ、二人で協力して彼を討ってしまいます。いつの時代にも、得するのは卑怯な奴というかなんというか…。
それと、やっぱりカッコイイ武将といえば個人的にはずせないのは、義仲の部下、今井兼平です。もうすげえ好きなんですよこの人。名前聞くだけで異様に反応するほど。
義仲とはめのと子の仲で、兄弟のような関係、それでいて武士としての忠節も厚い人。義仲とは最後2騎になるまでつれそい、「いつもはなんとも思わぬ鎧が、今日は重うなったるぞや」と弱音をはく義仲を、「御身も未だ疲れさせ給ひ候はず。御馬も弱り候はず。(中略)臆病でこそ、さは思し召し候ふらめ。兼平一騎をば、余の千騎と思し召し候ふべし。」と、義仲を励まし、いよいよ危なくなると、「お前と共に戦って死にたい」と訴える義仲に、何処のものとも知らない兵に切られて死ぬのは後世の汚点となる、といって自害するように訴える…。
義仲がまた、ちょっとうっかりさんというか、あまりに純真すぎるところがあるので(笑)それを支える兼平が非常に献身的でかっこよく見えるのです。結局義仲は、自害しようとして馬で松原に向かう途中、凍った田んぼを踏み抜いてハマってしまい、身動きが取れなくなり、「今井の行方のおぼつかなさに」振り返ったところを矢でいられます。兼平の願いは届かなかったわけです。切ない…。
兼平は最後は「武士の自害する手本よ」といい、口に刀をくわえて馬から飛び降りて死にます。(グロ)
こうしたエピソードの連続で作られているのが平家物語です。映画化やドラマ化が難しいのは予算もありますが、このエピソードの積み重ねで作られる作品の難しさではないでしょうか。
平家物語のモチーフは近代文学者もよくかいていますが、そうした作品はどうも…平家物語の持つ魅力をいちじるしくかいているように思われるのです。
その理由の一つは、やはり感情描写が殆どない平家物語のドキュメンタリーチックな手法が、近代文学の饒舌な形に変えられると、急に陳腐に見えること。不思議な話ですが、平家物語なんてのは昔の文学なので当然、テンプレートにそってかかれてる訳です。歌の引用による風景描写や、合戦の様子にいたるまで(さしつめひきつめ散々に射る、とかしころをかたぶけ、とか)、同じような文章が使われているのに、それが決して人を飽きさせることがない。
それはやっぱり、そのテンプレートを使うにしてもまったく手を抜かない、一挙一動にいたるまで行動を抜き出すような、偏執的なまでの個人個人の描写に真剣だから。
「今こう思っている」ということをセリフで抜かなくても、それらの態度から思いを想像させるのです。
近代文学はどうしても私小説の悲しさで、「気持ち」を書いてしまう。これが平家物語には著しく相性が悪いのだと思います。平家物語に限らず、所謂武士階級のための芸術というのは、「想像」というものを非常に重視している。
例えば能です。歌舞伎はやはり、ある程度の舞台装置や、俳優の容姿などが重視されるわけですが、能にはそれがないわけです。紙で囲んでしまえばそれは船であり、この世に無い人は皆面で表現されてしまう。それはやはり、昔の人はそうしたものを説明する必要が無かったからだと思うんですよね。武士にとって、平家物語に出てくる悲劇の人々の顔、気持ちといったものは、容易に想像できるものだったんじゃないでしょうか。だからいらないものをどんどんどんどん省いていって、それが彼らにとって究極に感情移入できる、もう一つの人生として舞台に再現されたのではないかと思うのです。
それと、近代文学と平家物語の相性があわないもう一つは吉川英治の新平家のようなものは例外として、多くの近代文学がかいた平家物語はその一部なわけですけど(芥川や菊池寛の俊寛とか。菊池寛のはある意味面白かったけど)、一部を抜き出した途端平家物語の魅力は失われるんですよね。
上であげた、木曽最後の場面なども、平家滅亡までにいたる歴史の中で描かれるからこそ印象に残るのであって、単体として抜き出すと、何だか陳腐に感じると思います。
これこれこういう人々のなかに、義仲という人がおり、兼平という人がいた、それが平家物語の魅力でありパワーなんではないでしょうか。
人の細かなエピソードで成り立った群雄絵巻なんだと思います。それはのちの軍記ものに比べたら、女々しくみえるところや、宗教の匂いが強い部分が、人によってはあわないのかもしれない。でもそれはまさしく平家物語しかもたない個性だと思います。
私はこの物語を一読で大ファンになりましたが、2度よむと、また全然違う魅力があってますますひきつけられました。古典にこんなことをいうのもヘンですが、私のオールタイムベストです。
最後に、あえて「百二十句」とかいたことについて。
平家物語は多くのバリエーションをもち、それが平家物語を「研究するのも読むのも面白い」といわせる理由です。この百二十句がのっているのは新潮の古典集成。今は文庫で気軽に平家物語は読めますが、個人的にはこの新潮古典集成のものがおすすめです。その理由は
・横に字幕のように現代語訳がついており、原文を読みながらわからなかったら字幕を見る、という読み方ができること。
・注が非常に充実しており、他本との差や史実ではどうだったかなど、よりいっそう興味が深まる
・名前の注が細かく、前にでた名前でもでるたびに説明がついたりするので私のような忘れっぽい人でも安心
・今一番手に入りやすい、岩波文庫文庫本になっている覚一本と違いがあるが、特にラスト。「断絶平家」と言われる形で、覚一本のしんみり終わる形よりも、いきなりパタリと終わってしまう無常観のある終わり方。両方よんだがこっちのほうが個人的には好きでした。
などの理由。買うのはちとキツいので、こっちを図書館とかでかりて読んでから、岩波の文庫を買って読み返すのが理解が深まるし手軽でいいかなあと。
どちらにしても、名作には違いないです。敷居は高いように思いますが、ハマると危険です。
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