どうもご無沙汰です。
今回は何故今更、と言われそうな古典のレビューです。
実は私、殆ど学校というものにいってないのもありますが、古文が苦手で、名作といわれるコレも避けて通っていたのです。
しかしよんでみると、あまりの面白さに感動。正直、最近ちょっと小説に飽きたかもしれん、などと思っていた矢先だったので、たちまち読書EDから抜け出すことができました。素晴らしい。
今更いうのもなんですが、平家物語というのは清盛の平家絶頂期から、源氏との戦いに敗れて壇ノ浦に多くが沈み、平家終焉までを描く歴史絵巻です。
しかしながら時代が違うので、今イメージする「歴史小説」では当然ないわけで。意外な話ですが、この長い話の中で合戦シーンは終盤に固まっているばかりで非常に少ないのです。
じゃああとはどんな話かというと、例えば清盛に翻弄される白拍子の話であるとか、流された謀反人の話だとか、これから首を切られる惟盛の少々くだくだしいぐらいの思いであるとか、
もしこれが今の作家が書く物語だったら、鵯越や宇治川など名だたる合戦、大きな歴史イベントにページをさくはずです。しかし平家物語はあろうことか清盛の息子、重盛が親父にする長ったらしい説教に何ページもページ割くんですよ。ありえない。てか小松殿嫌いです。喋りすぎじゃ。
だから、なんでこんな所こんなに長いの?っていう部分が、今の人から見ると沢山あるわけですよ。
でもこれこそが、このエンターテイメントとして完成されていない所にこそ、物語の本質があるんじゃないのかなあと思うのです。
それはつまり、書く人、語る人の感情移入の問題で、ここは美しいと思うからここばかりを語る、逆にここは魅力を感じないからはしょる、というような。
考えてみれば歴史小説であっても、歴史ではありえないわけで、じゃあ歴史が何なのかといえば、結局書き起こされた歴史というのは物語でしかないはずで、物語というものは多分にその時代を生きる人の感情ではないかと思うんです。
興味深いのは、平家物語は物語としてかなり改ざんされた歴史なんですよね。実は一の谷にまけたぐらいでは、平家はまだ強い力を持っていたんですが、平家物語ではあたかももはや平家は終わりであるように、物悲しく描かれている。それは物語が「盛者必衰」でなくてはならないからです。
平家は消え入る運命にあるということが、物語として設定されているから。そしてその物語は実際に平家の時代が終わったという歴史にそって織られているわけです。
こういうふうに物語としてアレンジされていてもなお、今の私達にとって退屈だとか理解できないと思わせるのは、その当時の人の考えが私達と違うからなわけで。
つまり平家物語を読むことは、単純に物語を味わうということのみならず、当時の人のものの考え方をダイレクトに受け取っていることになるのですね。
仏教や神教の色合いがどのような人々の背後にも見えるのをみるにつけ、これが私と同じ日本人なのだ、と理解するのもなんだか困難なほど、そこには隔たりがあると思います。「古きよき日本」なんていう言葉じゃ片付けられないほど荘厳で、呪いや祈りに満ちた日本の姿がそこにあるのです。そしてそれこそ、物語を読む楽しみなのではないかと思いました。
こういう、物語としてあまりに偏った描写をする平家物語の魅力に気づいたのは、俊覚の部分でした。
鹿ケ谷の陰謀で謀反をたくらんだ俊寛・成経・康頼が鬼界ヶ島(今の硫黄島)に流され、暫くたったのちに許しが出るのですが、赦文を持った使者が島にたどり着いた時、成経・康頼はでかけており、俊寛が文をうけとります。興奮して文をあける俊寛ですが、そこにはなぜか俊寛の名前がありません。
…俊寛という文字はなし。礼紙にぞあるらんとて、礼紙を見るにも見えず。
奥よりはしへ読み、端より奥へ読みけれども、二人とばかり書かれて、3人とは書かれず。
ここで二人帰ってきて、同じように文をみるのですが、やはり3人とはかかれていません。信じられない俊寛の嘆きは強烈です。
「そもそも我ら三人は、罪も同じ罪、配所も一つところなり。いかなれば赦免の時、二人は召しかへされて、一人ここに残るべき。平家の思ひ忘れかや、執筆のあやまりか。こはいかにしつる事どもぞや」
と天にあふぎ地にふして泣きかなしめどもかひぞなき。少将(成経)の袂にすがって、
「俊寛がかくなるといふも、御辺の父、故大納言殿よしなき謀反ゆえなり。さればよその事とおぼすべからず。ゆるされなければ、都までこそかなはず共、この船に乗せて、九国の地へつけてたべ(後略)」
必死に嘆く俊寛に、成経たちは、都に戻ったら清盛に相談もしてみるから、と適当にあしらって、船にのります。
狂ったようになった俊寛は、ほどいたとも綱にすりより、水が腰まで来ても、脇まで来ても、すがりついて泣き叫びます。「さていかにおのおの、俊寛をば遂に捨はせ給ふか」と…。
平家物語屈指の、恐怖と悲しみを誘う名シーンです。この感情に訴える描写はすさまじい。紙を繰り返し繰り返し眺めるところや、人のそでにしがみついて泣く姿が、嫌でも目の奥に浮かんでくるようです。
でもこの俊寛は実際には、許されなかったわけではなく、もう島でなくなっていたらしいのです。つまり、平家物語の完全な創作なわけですが、そういわれても、もうこのシーンをみてしまえば、俊寛という人物を「存在しなかった」と片付けることは出来ないでしょう。物語の人物が、紙の上にかかれた文字をこえていきいきと存在し始める、その物語の強烈な魅力が平家物語にはあるのです。
そしてそれはこの物語をつらぬくこの時代の人々の、呪術的で宗教的な感性となにかしら関係があるような気がします。
何か長くなりましたが、語り足りないので次に続くと思います(笑)
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