…もっと近代風の言い方をすれば、人間は自分自身を裏切るのだ。夢見るナイーヴさの保護からは抜け出していて、そして自分のさまざまな夢に、余裕を持たないまま触れることによって、我が身をさらし者にしてしまう。というのも、余裕を持って追想しながら、夢について語ることが許されるのは、ただ向こう岸から、すなわち白昼からだけなのだ。こうした夢の彼岸には、ある種の清めにおいてのみ、達することが出来る。身体を洗うことに類似しているが、しかしそれとは全く異なるこの清めは、胃を通って行われる。朝食前の空腹のものは、あたかも眠りの中から語るように、夢を語る。―――p21
まずは半七から、と思ったのですが、ベンヤミンの方が買ったのは早かったとわかったのでこっちから…。
ベンヤミンの著作はとても好きで、2,3冊ぐらい家にあるんですが大抵の場合理解して読めません…彼の歴史学者や哲学者としての顔は私にはちょっと難しすぎてさっぱり理解できませんので…。
やっぱ昔の哲学者の作品とかも読んでないと理解できないよなあ、こういうの。
それでもベンヤミンを愛読しているのは、他でもなくかれの文筆家としての部分が非常に好きだからです。
彼の文章はなんというか、非常に美しい。しかもその美しさは、装飾的な美しさや演出的な美しさではなく、本来なら心に去来したり、目の前にあったとしても余りに特筆するのに価しないように思えることなので見逃してしまうような、そういう一瞬の心や事象のひらめきを、あたかも彼自身の眼のレンズによって撮影された映画を見せるように、読者の前に晒して見せることです。
彼の感性はこんなにも色んな知識を蓄えた人とは思えないぐらいみずみずしくて、子供がなんの変哲もない物や人の前で立ち止まってじいっと見つめているかのように何か普通の人には見えないものをみている、そしてそれを物凄く慎重にかいている、そういう印象を受けます。
そういう子供っぽい感性と同時に、ユダヤ人らしいウィットにとんだ表現も持ち合わせていて、例えば本書の本と娼婦を重ね合わせた文章(本と娼婦は、ベッドに引っ張りこめる、本と娼婦は時を交差させる。あたかも夜を昼のように、昼を夜のようにする…など)なんかは、まるで落語のようで非常に面白い。
ベンヤミンの本は沢山出ていますが、これはタイトルからもわかるように、あくまで散文のように、そのベンヤミンのまだ批評に達していない心のひらめきをまとめているものです。
心の迷路を町にたとえて、読者が彼の眼と共にさまよっていく「一方通行路」、モスクワやナポリなどを寓話的・歴史的表現で語る「町の肖像」、過去のドイツの偉人の手紙を通してドイツ人というものを考察していく「ドイツの人びと」など、どれも彼の鋭い観察眼と感性がほとばしらんばかりの非常に濃度の濃い本です。
なんでしょうねえ、この感性は…並の人だと絶対失ってしまうか、変質してしまう類のものなのに、それを年をとって得た知識や表現力によって非常に高度のものまで昇華させている。文章の美しさは小説のようで、意味がいまいちつかめない私のような脳味噌の持ち主でもなんだか読んでしまうんですよね。
また、彼はユダヤ人というのもあるのですが、ドイツにありながら外からドイツ人を眺める、ということもできる人で、ドイツ人がヨーロッパ人に、彼らと付き合っているとホッテントットとつきあっている気がする、といわれるのは何故なのか、といったようなことも、冷静に見つめていて、こういうのも面白いです
(というか、そうなんか…ドイツ人他のヨーロッパ人ともちがうんか…)。
上に上げた引用は、この本の中でも大好きな文章。
全文は長いので引用できませんが民間の言い伝えに夢を朝食前に語ってはいけないというものがある、という話から始まり、それは朝食を食べることによって、体の奥にとどまっている夢を洗い流すのだ、といった文章は非常に美しく、また食事というものを一種の夢をおとす儀式として考えられている発想に読みながら眼からうろこが落ちたんでありました。
からくり時計の細かな動きや子供の態度、切手の役割にいたるまで、観察と豊かな想像力によって膨らまされた記憶はもはや個人のものを超えて、私達が共有できるものになる。こうした何でもないことをどこまでもどこまでも見つめ、考えるということは、ベンヤミンのような豊かな感性を持ってない人間でも、発想するヒントになるんではないかなあ、とも思います。
精緻な文章は読みながら疲れるので難易度は高いですが、是非どうぞ。