見えない都市 / イタロ・カルヴィーノ

「朕が昨夜、夢で何を見たか語って聞かせよう」と汗はマルコに言う。
「隕石と漂岩の点々と散らばっている、平坦な黄土地帯のただなかで、朕が遠くに見たものは、ほっそりと伸びた針のような都市の尖塔が聳え立つ姿であり、それは月が運行の途中で、時にはこの塔、また時には向こうの塔の上にと、その上で休むことが出来、あるいは起重機の綱の上にとまってゆらゆらとぶらさがっていられるようにというわけなのだった」

するとポーロは――
「陛下が夢の中で御覧なさった都市はララージュでございます。夜空に留まっているようにというこの祈願をその住民が行いますのは、月がその都市にある全てのものに限りない生育と増加を授けてくれるようにというためなのでございます」

「そのほうの心得ておらぬことがあるぞ」と汗が言い添えた。
「月がララージュの都市に感謝の印として与えたものは、いっそう稀有な特権なのだ。すなわち、軽やかに成長するという特権である」(p93~94)


イタロ・カルヴィーノ、大好きな作家です。イタリアの作家というとこの人かディーノ・ブッツァーティは絶対知っておくべきです。それぐらい、魅力的で個性的な作家だと思います。

この小説は、マルコ・ポーロがフビライ汗に、自分が見聞きしてきた都市の話を物語るという形式で話が進みます。しかし、一本のつながった物語ではなく、非常に短い章仕立ての、都市の話だけで成り立っているような物語です。
間間に、ポーロとフビライの会話が挿入され、それがこうした都市の物語をどのように考えるのかのヒント、奥行きを与えてくれますが、それにしたところで一見意味がないもののようでもあり、また、この二人が出るからしっかり時代が固定されているわけでもなく、空港やジェットコースターなどの話もでてきたりして、どこまでももやもやとしたつかみどころのない本です。

この都市の物語は様々で、同じまっしろな微笑んだ顔の人が毎年延々と増えていく都市や、天空に黄金の都市があると信じ、それを完全に模倣しようとする都市、都市からでる廃棄物を、都市から遠ざけようとするあまりにその汚れに取り囲まれてしまう都市など、奇妙なものばかりです。
マルコはこれを実際にみたもののように語るわけですが、そこにはなにかほら吹き男爵の冒険などにも通じる、とんでもないほらというふうに感じられないわけでもない。実際に物語の中でも、汗はマルコにそなたの語る町など存在しない、とごねたりする。
それでも、マルコはどこまでも淡々と都市の話を物語ります。こうした実際には存在しないようにみえる幻想的な都市の話には現代の都市を皮肉る寓話的方向性がないでもない。でも、この物語をそういう見方で見てしまうのはちょっともったいないものでもあります。

確かに、これらの都市は一見すると病んでおり、その問題点は我々が生きる時代と符合している部分もあるけれど、ただ都市というものの病んでいる姿ばかりを映し出しているわけではなく、様々な世界の多様さ、都市というものの面白さもまた、現れているからです。
マルコの語る都市の話に共通しているのは、都市があたかも独自の思考でその姿になっているように思えることです。私達は人間こそが都市を作り出すと思っているが、この本に出てくる都市はその存在によってすんでいる人間を作り出しているようでもある。
読んでいるうちに、人が住むためのもので、暮らしやすさを優先して徐々に作り上げていくものだ、と思っていたのが、都市をつくりあげるのは確かに人だけれども、そこには利便性を越えた人間一人一人が気づかないような「哲学」が入り込んでおり、その個性の強烈さゆえに、そうして作り上げられた都市がまた人間をつくっていくのではないだろうか、というふうに変わっていきました。
幻想小説であり、限りなく非現実的な小説でありながら、なにか都市というもの、さらに広げれば人工物というものの、本当の姿を覗くことが出来たような、そんな気がしました。

これは本当の意味で「旅」ができる本だと思います。
ガイドブックで写真を見るだけではできない旅。それどころか、実際に自分の足で歩いてもできない種類の旅かもしれません。本にしかできない旅。
それとも、本文でマルコ・ポーロが「私はどこの都市について語るときでもベネツィアについて語っているのでございます」」といったように、読んで旅をしているつもりなのに本当は自分の精神は自分の故郷から一歩も踏み出していないのかもしれません…。

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